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大久保利通と「公娼」

 「御一新」(明治維新)をくぐり抜けて公娼という制度(「公娼制度」、公娼制)が作られていく過程における、近代日本創成期の指導的政治家である大久保利通(初代内務卿)の役割について検討する[1]

 

1.農奴解放・奴隷解放・「芸娼妓解放」

2.公娼制の再確立

3.内務卿大久保利通・伊藤博文による公娼制の近代化

4.司法省を抑えて東京警視庁・地方官の管轄へ

5.考察

 

1.農奴解放・奴隷解放・「芸娼妓解放」

 

オールコックの『大君の都』

 幕末の日本における、人身売買と遊廓等での性売買の慣行(総じて江戸時代の公娼制)は、すでにある程度知られた事実であった。大英帝国の初代駐日公使オールコック(Rutherfort Alcock)が『大君の都』(THE CAPITAL OF THE TYCOON, 1863)で厳しく批判していたからである。日本では「父親が娘に売春させるために売ったり、賃貸ししたりして、しかも法律によって罪を課されないばかりか、法律の許可と仲介をえているし、そしてなんら隣人の非難もこうむらない」、「日本では人身売買がある程度行われている。なぜなら、娘たちは、一定の期間だけではあるが、必要な法律的形式をふんで、売買できるからである。少年や男についてもそうであろうとわたしは信じている」と[2]

 したがって、ロシアでは農奴解放令(1861年)、アメリカ合衆国では奴隷解放宣言(1863年)が出される時代に「文明国」の仲間入りをするためには、人身売買に基づく性売買の慣行に対して何らかの対応が必要であるという認識は、留学生をはじめ日本の一部にははっきりとあったのである(拙著20頁)。

 

津田真道の「人ヲ売買スルコトヲ禁スヘキ議」

 幕末に四年近くオランダに留学していた津田真道(真一郎)(刑法官権判事)は、明治2(1869)年3月、人身売買の禁止を太政官に建議した(「人ヲ売買スルコトヲ禁スヘキ議」)。

 その内容は、「牛馬ニ同シウスルモノ」である「奴婢」は消失しつつあるが、「年季中ハ牛馬同様ナルモノ」である「娼妓」が今なお残っている、この「娼妓」をなくすために人の売買を禁止したい、ただし、娼妓はまだなくすわけにはいかないから(「尤娼妓ヲ無クスルコトハ未ダ出来ヌコトナレバ」)、遊廓はそのままにして、娼妓が、西洋諸州のように「所謂地獄売女」(自売の遊女、私娼)同様にふるまえばよいというものである。

 つまり、津田は、人身売買・性売買政策として、人身売買(「身売り」)をなくして西洋並みにすればよいと建議したのである。言い換えれば、概して男達(知識人・政治家)は、人身売買の方はなくして──自分達が西洋で見てきたように──「自売」の遊女にすればよいだろうと考えたのである。同時に、その多くは、(人身売買の終着点としての)遊廓等そのものの解体が問題になるとは考えなかったのである。(拙著21頁)

 

新律綱領──「人ヲ略売シテ娼妓トスル」罪

 おそらくこうした文脈で、明治3(1870)年12月に下付された刑法典・新律綱領(全192条)に、人をかどわかして娼妓に売り飛ばすことが禁じる条文が入れられた。賊盗律中に「略売人」の条が設けられ、それは、娼妓に略売する罪から始まる(「凡(およそ)人ヲ略売シテ娼妓トスル者ハ、成否ヲ論セズ、皆流二等、妻妾奴婢トスル者ハ徒二年半」)。

 

マリア・ルス号事件

 「身売り」の慣行と性売買が人身売買禁止という文明社会の基準に抵触し、指弾されるのではないかという恐れは、横浜でのマリア・ルス号事件の裁判過程で現実の悪夢となった。明治4年10月(1871年11月)には、条約改正を念頭に、岩倉具視(右大臣)・木戸孝允(参議)・大久保利通(大蔵卿)・伊藤博文(工部大輔)等の岩倉使節団が米欧に旅立っていたから、矢面に立たされたのは留守政府(太政官正院は三条実美・西郷隆盛・板垣退助・大隈重信)である。

 明治5年6月4日(1872年7月9日)、ペルー国籍のマリア・ルス号が、暴風雨にあって横浜港に避難してきた。乗せられていた清国人(苦力(クーリー))の一人(木慶)が逃亡して、イギリス軍艦に保護され、日本に引き渡された。いったん船に戻ることになったが、船内での拷問をイギリス代理公使R.G.ワトソンが確認し、日本が処断するように外務卿副島種臣に強く働きかけた。だが、ペルーとの間に外交関係はなく、日本の介入は慶応三年(1867年)に結ばれた横浜の居留地取締規則(第四条)に抵触する恐れがあった。にもかかわらず、副島の主導で、結局、日本はこの事件を審理することになる。

 7月1日(8月4日)、副島から神奈川県権令(ごんれい)大江卓に調査の指令が発せられた。大江を神奈川県参事に招いたのは県令陸奥陽之助(宗光)であるが、陸奥は、領事裁判権の問題から神奈川県が裁判を担当することに司法卿江藤新平とともに反対し、6月18日に県令を離任していた。かわって、大江が神奈川県権令に任命されたのである。

 7月4日、大江は、G.S.ヒル(神奈川県法律顧問)に助けられて木慶と船長リカルド・ヘレイラに対する審理を始め、これには在神奈川イギリス領事ラッセル・ロバートソンが列席した。7月16日、船長に対する審理が再開されるが、直前の13日には、ワトソンが協力を要請したN.J.ハナン(神奈川領事裁判所に派遣されていた上海高等法院代理判事)が、訪れた外務大丞(だいじょう)花房義質(よしもと)に対して、日本の奴隷関係(遊女奉公)等の残存如何を質問したうえで、遊女契約等がある以上船長に対する強硬な判決は控えた方がよいと助言していた[3]

 おそらくこの助言を勘案して、大江は、日本の刑法によれば有罪であるが、本件の諸事情を勘案して特別に無罪とし、出帆を許可するという判決を下した(7月27日)。(拙著23頁) 

 

大蔵省意見書(陸奥宗光起草)

 他方で、大江は、人身売買の禁止を司法省に建言した。それを受けた司法省がその方法を模索し、太政官正院に建言した。正院は大蔵省に下問した。そして、これを受けて、7月30日、井上馨(大蔵大輔)が意見書を提出したのである(『世外井上公伝』)[4]

 大蔵省意見書(「大蔵省答議」[5])は、前文で、まず、「数百年ノ弊習」が「一洗」されたにも関わらず、「人ノ婦女ヲ売買シ」、「遊女芸者其他種々ノ名目」で、「年期ヲ限リ或ハ終世其身心ノ自由ヲ束縛」して渡世する者がいる、これは、かつてアメリカにあった「売奴ト殆ント大同小異ノ景況」であり、嘆かわしいことであると述べる。

 次いで、今般神奈川県へ命じられたペルー船に乗り込んだ「略売支那人」の裁判では、「皇政ノ仁恵ヲ他国人民ニマテ」及ぼすことができたが、国内に「売奴同様ノ人民共」がいては「皇国人民ノ大耻(おおはじ)」であるから、この機会に「其束縛ヲ解放セシメ其人権ノ自由ヲ得セシメ」たいと述べる。

 これに太政官布告案が付けられており、「第一条御布告案」として、「人身ヲ売買致シ終生又ハ年期ヲ限リ其主人ノ存意次第虐使イタシ候儀ハ、天道人倫ニ背キアルマシキ次第ニ付古来制禁ニ有之候処」、「末々ノ者、年季奉公等種々ノ名目ヲ以テ奉公住致サセ、其実売買同様ノ所業ニ陥リ、以テノ外ノ事」であるから、今後厳禁するとある。

 「第二条布告案」では、「今般人身売買厳禁」が仰せ出されたことをうけて、従来の渡世の者を一定の条件下で認めるために四つの規則(「遊女貸座敷規則」「抱遊女女芸者等処分規則」「遊女芸者等取締規則」「遊女規則」)を置くとする。

 なかでも「遊女規則」では、「第一則」で、「遊女渡世ヲ願フ者ハ本人真実ノ情願タル旨」「親族尊長二人以上」の保証を以て「戸長副戸長奥印ノ上」管轄庁へ願い出て、「免許鑑札」を受けることとし、その他にも、免許地以外での厳禁、免許は一年限り(ただしやむを得ない場合は再び願い出ること可)、「免許鑑札」交付と「税金」納入、十五歳未満の者の禁止、毎月三度の「検査」等を定めている。

 この意見書の起草者は、じつは陸奥宗光(租税頭)であると特定された。陸奥の杉浦譲宛の二通の書簡(8月13日付、同19日付)を分析した結果である[6]。同書簡によれば、陸奥は、「売奴禁止」(奴隷売買禁止)をめざしていたのであるが、正院の対応が遅々として進まないため、「毎日三職諸公ニ面ス」機会のある杉浦に働きかけを依頼したのである。陸奥は、神奈川県令(明治4〔1871〕年11月-明治5年6月)であったから、横浜の遊廓事情に通じていたはずである。(拙著25頁)

 

第二の裁判での遊女の年季証文問題

 マリア・ルス号事件は、さらに、船長側が清国人たちを訴えたため、第二の裁判に入った。神奈川県裁判所で、この移民契約書の有効性、つまり、奴隷売買契約書であり無効ではないのかをめぐって8月16日から21日まで審理が行われた。

 弁論で、船長の弁護人フレデリック・ディケンズ(イギリス人弁護士)は、日本の法律に照らしても、この契約を強制執行させることは妥当であるという論陣を張った。その例として、遊女の奉公契約(年季証文)を取り上げた。そして、この契約は、「日本の法律によって執行され、また厳しい強制力をもっている」、さらに、「奉公の権利は、譲渡可能」であり、「承諾する能力もなく結果もしらないような未成年者をしばしば就業させている」、しかも、こうした制度は、政府によって直接認可され、管理され、政府の重要な歳入源になっていると指摘した。その際には、横浜に黴毒治療院をつくったジョージ・ニュートン(英国海軍医師)の小冊子(1869年)から引用した[7]。そこには、三ヶ月間に14307人を診療し、452人の病体を発見し加療したと記されていた[8]

 マリア・ルス号の裁判は、領事裁判権問題があることから、諸外国注視の中で行われたものである。しかも、条約改正を念頭に岩倉使節団が派遣されている最中の出来事であった。こうした場で、遊女奉公が実質的に奴隷売買であり、かつ、日本国内で合法であると指摘された日本政府の衝撃は想像にかたくない。判決(8月25日)は、御雇い外国人が作成したとみられる長文のもので、被告勝訴となった。(拙著27頁)

 

「芸娼妓解放令」(太政官達第295号)と「牛馬ときほどき令」(司法省達第22号)

 10月2日、太政官から、いわゆる「芸娼妓解放令」(太政官達第295号)が出された。第一項で、従来「年期奉公等種々ノ名目」で行われている「其実売買同様ノ所業」を厳禁し、第四項で、「娼妓芸妓等年季奉公人」の「一切解放」を命じるものである(「娼妓芸妓等年季奉公人一切解放可致、右ニ付テノ貸借訴訟総テ不取上候事」)。

 続いて同月9日には、司法省から、いわゆる「牛馬ときほどき令」(司法省達第22号)が出された。娼妓芸妓等に対して借金の返済を求めることを禁じたものである。第一項で、「人身ヲ売買スルハは古来ノ制禁」であるのに「其実売買同様ノ所業」が行われているとして、「娼妓芸妓等雇入ノ資本金」は「贓金ト看做ス」とした。さらに、第二項で、「同上ノ娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス。人ヨリ牛馬ニ物ノ返辨ヲ求ムルノ理ナシ」として、娼妓芸妓への返済請求を無効とした。第三項では特に、金銭がらみで「養女ノ名目」にして「娼妓芸妓ノ所業」をさせる者は、実際上「人身売買」に他ならないから、厳重に処置せよとした。

 二つの法令を合わせると、芸娼妓契約と金銭の返済請求を共に無効とするものである。つまり、「身売り」に基づく遊廓等での性売買の制度(江戸時代の公娼制)を根幹から崩すものであった。(拙著28頁)

 

永年期奉公廃止に向けた司法省の動き(「奉公人年期定御布告案」)

 「娼妓芸妓等年季奉公人」の「一切解放」を命じた芸娼妓解放令へ向かう動きに先行して、4月に司法卿に着任した江藤新平が中心となって、6月23日、事実上の人身売買である長期の年季奉公(「永年期奉公」)を廃止すべく、司法省から正院に「奉公人年期定御布告案」の伺(うかがい)が提出されていた[9]

 伺は、前文で、「人民自主ノ権利保護」の趣意が追々徹底してきているが、「従来男女共ニ永年季奉公ト唱エ、其実ハ角兵衛獅子又ハ娼妓ノ類トナシ」、「牛馬ニ均シク」酷使されている者がいるとして、こうした「習弊」の「御一洗」を訴えている。

 これに布告案(「奉公人年期定(さだめ)御布告案」)が付されており、そこでは、第一項で、金銭がらみで男女を取引する、又は、永年期奉公あるいは養子女の名目で身分を買い取ることの一切禁止(「金談ニ付男女ヲ取引致シ、又ハ永年期奉公或ハ養子女ト唱ヘ身分買取候儀、一切可為禁止事」)、第四項で、「娼妓角兵衛獅子ノ類」の新規召し抱えは満一年限りで延期は不可(「娼妓角兵衛獅ノ類新規召抱候儀ハ、満一年ノ外ハ延期不相叶候事」)、但し、現在「永年期約条」で召し抱えている分は、「満三年」以下に証文を改めること等を規定している。 

 この司法省の伺に対して、左院から、「男女永年季奉公」に関する提案に異議はないが、積年の習弊を一朝一夕に改めることはできず、堕胎も盛んになるであろうから、育児院の方法を確定する必要があるという異見(左院異見 7月3日)が出された。

 さらに左院は、大蔵省意見書に対しても、布告案の第一条に異存はないが、第二条は「公然淫楽」を許可するように聞こえるから、採用しない方がよいとした(8月)。また、司法省伺(8月28日のもの)に対して、問題点を指摘した上で、「従来ノ娼妓芸妓等年季奉公人一切解放可致、右ニ付テノ貸借訴訟総テ不取揚候事」という抜本的な布告案を提示した(9月5日)[10]

 

 以上のように、「娼妓角兵衛獅子ノ類」を念頭に永年期奉公廃止に向けて司法省が動いていたところへ、マリア・ルス号事件が勃発し(明治5年6月4日)、司法省の「奉公人年期定御布告案」の提出(6月23日)、マリア・ルス号事件調査の指令(7月1日)、司法省案に対する左院異見の提出(7月3日)、マリア・ルス号事件裁判(第一次、刑事)の開始(7月16日)・判決(7月27日)、芸娼妓に関する大蔵省意見書の提出(7月30日)と続いた。そのうえで、マリア・ルス号事件裁判(第二次、民事)の開始(8月16日)・判決(8月25日)、さらに、左院による抜本的な布告案の提示(9月5日)と動いた。つまり、おそらく、直接にはマリア・ルス号事件裁判(なかでも第二次)の衝撃を機に、左院から抜本的な布告案が出され、そして、それを元に、芸娼妓に焦点をしぼった「芸娼妓解放令」(太政官達第295号、10月2日)が出されたのである。(拙著30頁)

 

2.公娼制の再確立

 

東京府による「貸座敷屋並娼妓」の許可(東京府令達第145号)

 ところが、さらに一年余りした1873(明治6)年12月10日、「東京府知事大久保一翁」から「市在区々」の「戸長」に宛てて、「吉原品川新宿板橋千住五ケ所」で「貸座敷屋並娼妓」を許可する旨の指令が出された。「近来市街各所ニ於テ売淫遊女体ノ者増殖」していることを放置できないとして、「自今吉原品川新宿板橋千住五ケ所」の他は「貸座敷屋並娼妓」に類する所業を禁ずる旨(ただし根津は別途)が達せられた(東京府令達第145号)のである。

 これには、「貸座敷渡世規則」「娼妓規則」「芸妓規則」が付されていた。総じて、戸長に芸娼妓に鑑札を交付する権限を与えて、賦金(鑑札交付と引き換えに芸娼妓と貸座敷業者から徴収する税金)を東京府に上納させるというものである。

 各規則は大蔵省意見書に酷似している。なかでも「娼妓規則」には、「娼妓渡世本人真意ヨリ出願之者ハ」「情実取糺シ」た上で「鑑札」を渡すこととあり、その他にも、十五歳以下の禁止、免許貸座敷以外での渡世の禁止、「鑑札料」、月二回の「検査」とある。(ちなみに、大蔵省意見書では、「遊女渡世ヲ願フ者ハ本人真実ノ情願タル旨」願い出による「免許鑑札」交付、十五歳未満の禁止、免許地以外での厳禁、「税金」納入、月三回の「検査」であった。)

 ただし、注目されるのは、「人身売買厳禁」への言及がなく、年季の制限もないことである。大蔵省意見書が免許は原則一年限りとしたのに対して、前借や年季の「公」認が前提されているのである。

 言い換えれば、廃業に向けて限定的な許可政策を提唱した大蔵省意見書をも採り入れて──しかも、管轄庁への願い出、「免許鑑札」交付と「税金」納入、「検査」という、陸奥が考案した方式を採り入れて──従来通りの、地域を限って公然と許可する路線が息を吹き返したのである。

 こうして、「前借金」による拘束(「年季」ないし「年期」)を放置したままで、「娼妓」が、自由意志で(「出願」)、「貸座敷」業者から座敷を借りて、「鑑札」をうけて営業するという一見近代的な形式が整えられたのである。同時に、管轄を地方に移すことで、理屈上、国・政府は「人身売買」の汚名から解放されることになる。(拙著32頁)

 

東京府令達第145号への大久保利通の関与の度合い

 東京府令達第145号に関する大久保利通の関与は明らかではない。とはいえ、東京府令達第145号が発せられた時期は、いわゆる征韓論政変の大久保主導の終熄と、参議の陣容の激変[11]、さらに、大久保提唱による内務省の新設(1873年11月10日)と初代内務卿への大久保の就任(同月29日)がなされた後であるから、事実上新政府の統率者となった大久保の意に反して出されたとは考えにくい。また、大久保一翁と盟友関係にある旧幕の中心・勝海舟が参議に入った後でもある。こうした新たな体制下で東京府がこの路線を打ちだしたわけであるから、東京府令達第145号の背後に国と内務省の意向、少なくとも黙認があったとみても大過ないであろう。

 具体的には、東京府令達第145号に先だって次のような経緯があった。太政官は、早くも1872年11月5日、東京府の伺に対して、娼妓稼業は各自の自由に任せる、政府は制度を設けない、管理は地方があたる(「娼妓解放後旧業ヲ営ムハ人々ノ自由ニ任スト雖 地方官之ヲ監察制駁シ悪習蔓延ノ害ナカラシム」)旨の布達を出した。また、地方からの伺に対しては、東京府への指令に準拠せよとした(11月20日)。ついで、東京府と司法省警保頭の連名で、遊女・芸妓の名称を廃し、「芸者」と一括して規制する内規則を各方面に送った(1873年1月24日)。これに対して、大蔵省が、「徒ラニ其名ヲ美ニシテ」は「淫風ヲ誘導スル」ことになる、「辺隅区郭」を貸座敷に定めて、(「歌舞ノ技」のみとする)芸妓と娼妓とを峻別すれば、「賤業」「醜悪不廉耻」であることを知らしめることができると、東京府へ再議を命ずるよう太政官に建議した(2月14日)。この後正院から指示がない中で、東京府は、結局、太政官(右大臣岩倉具視宛て)に伺を出した(11月)[12]うえで、第145号の発布に踏み切ったのである。をもにができる財務省」》[13]

 

3.内務卿大久保利通・伊藤博文による公娼制の近代化

 

 この後、公娼制の近代的改変・整備をしていくのは、内務卿大久保利通と、それを引き継いだ伊藤博文に他ならない。二人がとりわけ心を砕いたのは──江藤新平ら留守政府が腐心した「芸娼妓解放」「人身売買厳禁」などではなく──政府の公娼制方針(集娼・明許)の貫徹と、大英帝国並みの黴毒病院の建設・検黴制の整備であった。

 

横浜にならって神戸に黴毒病院を建てるという問題

 この頃、横浜にならって神戸(福原遊廓)に黴毒病院を建てるようにイギリス公使が強く迫っていた。言い換えれば、大英帝国の方面からは、初代公使オールコックをはじめとする「人身売買」・性売買に対する批判と、布陣する艦隊のために性売買施設に黴毒病院を設けよという、相反する二つのメッセージ・要求が出ていたのである。

 そして、大久保は、後者をとり、黴毒病院を建設するように兵庫県令神田孝平に迫ったのである。

 だが、黴毒病院を設立すべしという内務省(大久保)からの要請(1874年5月29日)に、兵庫県令神田孝平が独自の立場から執拗に抵抗した(6月13日付大久保宛書簡)[14]。神田は、1873年6月(つまり、内務省設置以前に)、兵庫・神戸両市中における芸娼妓・貸座敷営業を許可、すなわち、区画の限定を解除しており、これとも関連して、隠売女(いわゆる私娼)の取締り方法に見込みが立っていない、その見込みが立たない限り検黴制度を導入しても無益であると主張したのである。

 だが、内務省から再三の指示についに拒絶できなくなった神田は、内務卿伊藤(台湾出兵問題の交渉で清国出張中の大久保の事実上の代行)に宛てて上申書を出して黴毒病院建設を表明する(1874年8月31日付)[15]。そして、9月27日に検黴を実施すると通達し、10月には福原町の「万年楼」を買い上げて、翌年2月福原病院として開院させるのである。とはいえ、神田は、内務卿(大久保)代理に宛てて、イギリスの強い要請自体が「御国権ノ妨害」ではないかと怒りをあらわにした手紙も書いている(1875年1月7日付)[16]

 こうした経緯を経て、結局、神田の断行した区画の限定の解除(「集娼」政策の解体)自体が撤回されることになる。ちなみに、兵庫県令神田は、第一回地方官会議(1875年6月)で幹事長に選出されるほど人望のある人物であったが、公娼制と検黴に関する内務省の方針(「集娼」政策の継続と検黴)に押し切られたのである。

 なお、伊藤博文(俊輔)は、すでに慶応三年10月頃、神戸で外国人相手に性売買をする女性の斡旋を手配していたとみられる[17]

 検黴を組み込んだ近代公娼制の成立には、イギリスやロシアの要求に応えて性病検査をした女性を提供するという面がまずあった[18]が、さらに、その後イギリス公使が、神戸にも横浜同様の黴毒病院を建設せよと強く要求したのである。大英帝国では、兵士の性病予防を主眼する伝染病予防法(1864年)が導入され、警察官が娼婦とみなした女性に対する性病検査を強制する等の一連の動きが始まり、1869年にはさらに本格化していた。

 

検黴制の導入

 兵庫県令神田の例で明らかなように、公娼制と検黴に関する地方の揺れ・変革の動きを抑えたうえで、1876年4月5日、内務省(大久保)は、「娼妓黴毒検査ノ件」(内務省達乙第45号)を出して、全国に娼妓の性病検査(検黴)を指令した。

 この布達は、娼妓を黴毒の感染源と決めつけて性病検査のターゲットにしたという点で、その後の日本の性病予防政策の方向を決したものである[19]

 検黴(強制検黴)は女性の身心への重大な侵害である。英国議会は検査の強制を禁止した(拙著46頁)が、日本では常態となった。また、のちに山川菊栄は「「婦人の特殊要求」について」(1925年)で、強制検黴を「最大の人権蹂躙」と呼び、公衆衛生の見地からこれが必要と信じる者は、客(男子)にもすることを主張しなければならないと論じた(拙著98、225頁)。

 以上のように、内務卿大久保は、イギリス公使パークスの要求に応えて、抵抗する神田を押さえ込んで神戸に黴毒病院を設立させ、さらに、全国的な娼妓の検黴制に向けて舵を切ったのである。

 

4.司法省を抑えて警視庁及び各地方官の管轄へ

 

 つづいて、娼妓・貸座敷等の許可・管理は誰の管轄なのか、他方で、私娼取締りは誰の管轄なのかをめぐる抗争が起こった。

 まず、私娼取締りをめぐって、東京府と東京警視庁による司法省の追い落としが起こった。すでに、内務省設置の延長上に東京警視庁が設置され(1874年1月15日)、内務省の指令を受けるものとされており、その長には、大久保の腹心・川路利良(大警視)が就いていた。川路は、司法省の存在感に憤懣やるかたなく、内務卿大久保にしきりと上書を出した。

 さらに、東京府と東京警視庁間の確執が起こる。これを経て、性売買対策は──公娼管理(つまり賦金の徴収)も、私娼取締り(つまり懲罰金の徴収)も──東京警視庁と地方官の手に(ひいては内務省の手に)委ねられることになるのである。

この連続した二つの抗争において、司法省御雇いギュスターヴ・ボアソナードによる、西洋の実情に関する回答が小さくない役割を果たしたとみられる。

 こうした過程を経て、公娼制は、廃止(ないし漸進的縮小)ではなく存続が前提となり、近代的に再編されて日本社会に定着することになる。 

 

公娼管理をめぐる動き

 1875(明治8)年4月22日、(新)吉原の貸座敷業者らが東京府と警視庁に宛てて許可申請(貸座敷・娼妓・引手茶屋の三業を合わせた三業会社を設立したいというもの)を出すと、東京府はただちに(24日)許可した。(ただし、5月7日には、内務省への伺を経ないこのような専断の処置をとったのはどういうわけかと同省から詰問されている。)これに反対する引手茶屋業者が東京上等裁判所に提訴すると、東京警視庁の川路(大警視)が、この問題は警視庁・東京府の権限内の事項であるから、訴状を受理するなと裁判所に申し入れた(6月27日)。

 裁判所が川路の申し入れを拒否すると、川路は、大久保(内務卿)宛てに長文の上申書(同30日)を提出する。追って書きには、売春は「賤業」であり、仏国並びに大半の欧州各国では、地方官に一任し、首都では警察が全面的に担当するというボアソナードの言葉が引用されていた。ただし、同日、裁判所はすでに判決を出していたので、川路は再び大久保宛に上申書を出す[20]

 

私娼(許可外のもの)の取締り──改定律例の条文の廃止、司法省の排除

 江戸時代には「隠売女(かくしばいじょ)取締」の触書が無数に出され、遊廓等の管理の他方で、隠売女(自売等の許可外のもの)取締りが行なわれた。つまり、徳川家支配地等において、性売買はお上の免許の下に置かれており、同時にそれは、それ以外の性売買の弾圧を伴っていたのである。そして、後者も、また、捕らえた「隠売女」を遊廓に引き渡して性売買をさせる等の大きな利益をあげるものであった。

 新律綱領には密売淫取締の条文はなかったが、改定律例(1873〔明治6年〕6月施行)で売淫取締の条文が入れられた(「第二百六十七条 凡私娼ヲ衒売(げんばい)スル窩(か)主(しゅ)ハ懲役四十日 婦女及ヒ媒合容止(ばいごうようし)スル者ハ一等ヲ減ス 若シ父母ノ指令ヲ受クル者ハ罪ヲ其父母ニ坐シ婦女ハ坐セス」)。

 他方、東京府は、無免許の性売買を取り締まるべく、1875年に警視庁と連名で「隠売女」取締について内務省に問い合わせて、同年4月4日、「隠売女取締規則」(府達第8号)を出した[21]

 これは改定律例と重ねて地方官が罰則を設けることを意味するから、東京裁判所・司法省から異議が出た。

 ところが、この抗争は、結局、改定律例第267条の廃止によって決着するのである。

 これには、川路が内務省に提出した「警視庁建議」(7月18日)[22]の影響があったとみられる。それは、「凡ソ倫理ヲ敗リ名教ヲ害スル者、淫ヲ粥クヨリ甚シキハ無シ。其卑汗醜悪、所謂人面ニシテ獣行ナル者、娼妓是也」(句読点引用者)と、口を極めて娼妓を罵る言葉から始まる。そして、我が国では改定律例第267条が私娼の取締りを規定しているが、開明諸国にはこのような法文はなく、この野蛮の陋態を外人は嗤うであろう、取締りは「地方官適宜ノ処置ニ任」すべきであり、改定律例第267条は停止するのがよいというものである。

 さらに、年末には法制局が、売淫・私娼取締の国法があるのは、「公娼ハ政府ノ公認スル所、法律ノ明許スル所」であることを示すから、体裁がよくない等、警視庁を支持する議案書(12月28日付)を提出した。これには、ボワソナードの「売淫規則疑問ノ答議」(12月22日作成)の影響があったと考えられる。[23]

そして、翌1876年1月12日に太政官布告第1号が出される。改定律例第267条を廃止して、「売淫取締懲罰ノ儀ハ、警視庁并各地方官ヘ」任せるというものである(「改定律例第二百六十七条私娼衒売条例相廃シ、売淫取締懲罰ノ儀ハ、警視庁並各地方官ヘ被任候条此旨布告候事」)。

 つまり、「公娼」管理のみならず、「私娼」取締りも、また、司法省を抑えて、「警視庁并各地方官ヘ」(ひいては内務省に)任せるものとされたのである。

 

売淫取締、貸座敷娼妓の許可事務は警視庁に(東京府達第18号)

 この直後、警視庁は「売淫罰則」を出す。すると、「売淫罰則」の懲罰金の使途の担当をめぐって東京府と警視庁との間に確執が起こり、結局、東京府は、売淫取締を警視庁に委任し、貸座敷・娼妓の許可事務は警視庁が行なうという府達第18号を出すにいたる。

 次いで、警視庁は、先の府による貸座敷規則・娼妓規則を改定した(警視庁令第47号、1876年2月24日)。この警視庁令によって、賦金の取扱は警視庁とされたのである。

また、内務省が、売淫罰則による懲罰金の担当事務者を各地方官および警視庁とした(内務省達乙第25号、同年3月5日)。そして、賦金の使途は、警察費とされた後、警察探偵費にかわり、そして、最終的には、地方議会がその使途を決定できる地方税に雑収入として編入されるのである(1888年)。

 こうして、1876(明治9)年には、「公娼」関係の規則、すなわち、貸座敷規則、娼妓規則、賦金取扱いに関する規則、検黴規則、そして、密売淫取締(「売淫取締懲罰」)に関する規則が出揃うのである[24]

 

5.考察

 

 以上のように、黴毒病院を設立すべしという内務省(大久保)から兵庫県令への要請(1874年5月)を皮切りに、改定律例第267条の廃止(太政官布告第1号、1876年1月)、売淫罰則による懲罰金を警視庁と各地方官の管轄とすること(内務省達乙第25号、同年3月)、全国的な娼妓の検黴の指示(内務省達乙第45号、同年4月)と続き、1876年春には、「公娼」関係の法規が出揃った。言い換えれば、大久保は、内務省設置(1873年11月)後、早い段階で「公娼」体制づくりにとりかかり、抵抗する司法省を抑えて二年強でその方向を決したのである。

 しかも、その初期、参議を辞した江藤新平が佐賀の乱(1874年2月)の旗頭となった時、大久保は軍事・行政・司法の全権を帯びて佐賀に急行して、鎮圧した。捕らえられた江藤は佐賀に護送され、本来単独で死刑を出せないはずの急設された佐賀裁判所で死刑判決(それも梟首)を下され処刑された(4月)。言うまでもなく、これは、司法省に対する重大な圧力である。

 また、横浜・神戸を擁する現地の県令である陸奥宗光・神田孝平が模索していた公娼制改革の方向を抑えたうえでのことであった。

 

 内務卿大久保による公娼制改変の要点は──「芸娼妓解放」「人身売買厳禁」を掲げて「身売り」の慣行に手を付けるのではなく──貸座敷娼妓の許可事務と賦金徴収を警視庁及び各地方官の管轄とすること、また、売淫罰則による懲罰金徴収を警視庁及び各地方官の管轄とすること、及び、検黴制の導入であった。はたして、これは、何を意味するのであろうか。

 賦金額は、1882(明治15)年で、大阪一○万五八三六円、東京五万三八五○円、京都五万一五六四円、神奈川四万六○五六円にのぼる(内閣統計局編『日本帝国統計年鑑』第四回)。神奈川県の当時の歳出予算額が二一万円程度であるから、じつに県予算の優に20%以上にあたる。また、当時全国の賦金合計はおよそ七○万円(内務省はそのうち一五万円を国庫に納入)にのぼる。1883年にはその54%が警察探偵費に支出された[25]

 このように、県予算における賦金の割合は驚くほど大きい。(さらに、賦金、懲罰金にとどまらず、遊廓関連の様々な収益があったはずである。)しかも、賦金の半分以上が警察探偵費にあてられている。

 こうした事態は、大久保の想定外のことなのであろうか。いや、むしろ、大久保にとって、内務省設置後早い段階で手がけた「公娼」体制づくりとは、内務省管轄下の資金を捻出するために、すなわち、警察と地方財政を支え、ひいては来るべき国造りの基盤を形成するために、真っ先に取り組むべき課題だったのではないだろうか。

 

 概して政治指導者としての大久保利通は、性急な出兵と戦争政策を押し止め、国内建設を優先するという方向(内地優先)へ舵を取り、さらに、そのために内務省をつくり、その下で、主に警保と勧業、すなわち、警察体制を構築し、殖産興業政策を着地させたとみなされている。

 だが、同時に、内務卿時代の活動の一つは、外国、及び、(のちには)自国軍隊の要求に応えて(重大な人権侵害である)検黴を制度化することであった。また、内務省及び警察体制構築、反対派弾圧・懐柔のための資金として、あるいは、「地方」建設のための資金として、賦金・懲罰金等を、腹心・川路利良と呼応して司法省を抑えながら、内務省・警視庁・各地方官というパイプラインに流し込んでいくことでもあったと言えるのではないだろうか。

 その際、清国出張時以来の「文明国」の情報・論理の提供者であり[26]、しかも、フランスという、「公娼」体制(娼婦の警察への登録と性病検査)を形成・保持している代表的な国の出身であるボアソナードの回答は大いに利用されたとみられる。それは、江藤が期待した司法省御雇いボアソナードを、江藤亡き後、大久保が活用したということでもある。

 大久保利通は、内務省が設置された1873(明治6年)11月から1878年(明治11年)5月の暗殺までの約四年半、初代内務卿をつとめた(佐賀の乱鎮圧、清国出張で東京を留守にした間は、木戸孝允、伊藤博文がそれぞれ内務卿をつとめた)。とりもなおさず大久保が主導したこの時期に、かつて江藤新平らが掲げた「芸娼妓解放」「人身売買厳禁」の理念は放擲され、日本に「公娼制度」という、「文明国」として正面からは認められない、だが、まごうことのない現実が内務省主導で作り出されたのである[27]

                                                   (2018年5月記)

 

[1] 本稿は、拙著『近代日本 公娼制の政治過程』(白澤社、2014年)第一章の2、3,4を元に、近代日本における「公娼」成立と大久保利通の役割という観点から整理したものである。拙著中の該当箇所を「(拙著○頁)」と本文中に示す場合がある。

年月日の表記は、改暦、すなわち、陽暦の採用(明治5年12月3日を明治6年〔1873〕年1月1日とした)以前は、たとえば明治5年6月4日(1872年7月9日)、明治5(1872)年6月4日、ないし、明治5年6月4日と記した。つまり、月日は陰暦での表記とした。改暦以後は、たとえば1873(明治6)年12月10日と表記した。

[2]山口光朔訳『大君の都』下(岩波書店、1962年)、137頁。

[3]以上、森田朋子『開国と治外法権──領事裁判制度の運用とマリア・ルス号事件』(吉川弘文館、2005年)147-150頁、154-157頁を参照した。

[4]下重清『〈身売り〉の日本史──人身売買から年季奉公へ』(吉川弘文館、2012年)、215-217頁。

[5]『太政類典』第二編、産業一七、第一六八巻。

[6] 松延眞介「「芸娼妓解放」と陸奥宗光」、『仏教大学総合研究所紀要』第9号、2002年。

[7] 森田前掲書、177-178頁。

[8] 牧英正『人身売買』(岩波書店、1971年)、182-183頁。

[9]大日方純夫「日本近代国家の成立と売娼問題──東京府下の動向を中心として──」、『東京都立商科短期大学研究論叢』第39号、1989年。同論文を収めた同『日本近代国家の成立と警察』(校倉書房、1992年)、280-281頁。

[10] 同上、284-285頁。

なお、同じ9月5日には大蔵省が、税は上納に及ばない(地方行政に入れてよい)、新規営業・補充は禁止する等を指示する大蔵省布達(第127号)を各県に出している。

[11] 1873(明治6)年10月25日、板垣退助・副島種臣・江藤新平・後藤象二郎の辞表が受理され、かわって、伊藤博文と勝海舟が参議に就任した。

[12]『芸娼妓取締』明治六年七年、東京都公文書館蔵。

[13]早川紀代『近代天皇制国家とジェンダー──成立期のひとつのロジック』(青木書店、1998年)「第五章 近代公娼制の成立過程──東京府を中心に──」、198-201頁。

[14]人見佐知子『近代公娼制度の社会史的研究』(日本経済評論社、2015年)、93頁以下。

[15] 同上、102頁以下。

[16] 同上、104頁。

[17] 同上、97頁。

[18] 藤目ゆき『性の政治学──公娼制・堕胎罪体制から売春保護法・優生保護法体制へ』(不二出版、1997年)、90頁。

[19] この内務省達の特徴は「梅毒の禍根はもっぱら娼婦売淫に起因する、と決つけていることで、この考えにより、わが国の性病予防が娼妓を対象に進められていくことになる」。山本俊一『梅毒からエイズへ──売春と性病の日本近代史』(朝倉書店、1994年)、44頁。ちなみに、以後もこうした考え(公娼〔さらに私娼〕を、性病の感染源と特定して、性病検査のターゲットにする)に固執したため、国民全体を対象にした性病予防策という方向に遅々として進まなかった。

[20] 大日方前掲書、292-293頁。

[21] 早川前掲書、204頁。

[22] 『太政類典』第二編、刑律一、第三四五巻。

[23]中原英典「明治九年第一号布告の成立事情」、『手塚豊教授退職記念論文集』、慶応通信、1977年。同論文を収めた同『明治警察史論集』(良書普及会、1981年)、109頁。

[24]早川前掲書、205-206頁。

[25]藤目前掲書、94頁。

[26]台湾出兵問題をめぐる清国との交渉(1874年9-10月)にボワソナードを伴った大久保は、万国公法では、「政権」が及んでいない土地(台湾「蕃地」)は「版図」とは認められないという論理を清国に対して展開した。勝田政治『大久保利通と東アジア──国家構想と外交戦略』(吉川弘文館、2016年)、101頁。

ちなみに、これより前、駐日イギリス公使パークスは、「大兵を他国の領地に送る」ことは「戦争」とみなされても仕方がなく、「万国公法」違反であると批判していた(『日本外交文書』七、同上90頁)。また、これより後、駐清イギリス公使ウェードは大久保に会って、台湾の全島は清国に属するというイギリスの見解を伝えている(同、同上107頁)。

[27]なお、清との間で結ばれた北京条約(1874年10月31日)の大久保にとっての重大な意味は、台湾への出兵が「義挙」であるという論理を認めさせたこと、言い換えれば、(殺戮された)琉球人が日本人である(つまり、琉球が日本領である)と清国に認めさせたと解釈し得るということであった。大久保は帰国後早速、「琉球藩処分」に関する建議を行い、琉球併合への第一歩を踏み出す。本稿で論じることはできなかったが、対琉球政策も内務省という装置の下に(「内務」として)大久保主導で行われていくのであるから、同様の発想があると考えられる。

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