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夏目漱石と沖縄──見える朝鮮・見えない沖縄

1.漱石における「沖縄」「琉球」の欠落

2.見える朝鮮

3.見えない沖縄

4.下関条約での琉球問題消去

 

1.漱石における「沖縄」「琉球」の欠落

 

 夏目漱石と朝鮮についてまとめた[1]関係から、では、漱石作品で沖縄(琉球)はどう位置づけられているのだろうかという関心を持った。驚いたことに、『漱石全集』(岩波書店、1993-1999年)の索引(第28巻)を見る限り、漱石作品に沖縄ないし琉球への言及はほとんどない。それも、琉球のモノについては多少あるが、ヒト、つまり、沖縄の人間については全くないのである。具体的には以下のとおりである。 

 

 「沖縄」

 まず、「沖縄」という言葉は、『全集』中に一箇所しかない。日記に書き写した台風関連の新聞記事がそれであり、それだけである。

漱石は、台風で「夜眼を三度」さました翌朝の日記(1911〔明治44〕年8月10日)に、「颶風(ぐふう)沖縄に滞在す」という見出しの新聞記事を書き写した(⑳338[2])。その記事中に、「沖縄島附近に在りし颶風の中心は依然として滞在す、沖縄より電報未着につき詳細を知る能わず」とあるのである。

 

「琉球」

 では、「琉球」という言葉はどうかというと、同じくこの日の日記に書き写した「東京地方警戒」という見出しの新聞記事中に、「颶風は琉球の南東洋上(北緯二十四度東経百二十八度)にあり〔後略〕」(⑳338)とある。つまり、地理上の「琉球」である。これを別にすれば、以下のようになる。

 まず、「琉球塗の朱盆」(①421)、「琉球がすり」(24-349)、そして、「琉球ツ丶ジ」(⑳501)、つまり、琉球に関係するモノがある。

 

「琉球の王様」

 次いで、「琉球の王様」(⑯522)がある。これは、第六回文展を見ての連載「文展と芸術」(『東京朝日』1912〔大正1〕年10月15日-28日)中にある、画(山口瑞雨「琉球藩王図」)に描かれている人物のことである。

 展覧会での画に対する漱石の論評は、まず、金屏風「南海の竹」(田南岳璋)から始まる。漱石は、「此むらだらけに御白粉(しろい)を濃く塗つた田舎女の顔に比すべき竹」と形容し、これを見て、これと好対照をなす、この間見た「猫児(みょうじ)と雀をあしらつた雅邦の竹」(橋本雅邦「竹林猫図」)、「すつきりと気品高く出来上つた雅邦のそれ」を思い出したと言う。次いで、「此竹の向側(むかいがわ)には琉球の王様がゐた。其侍女は数からいふと五六人もあつたらうが、何れも御さんどんであつた」と述べる。

 「むらだらけに御白粉を濃く塗つた田舎女の顔に比すべき竹」が、「すつきりと気品高く出来上つた雅邦のそれ」、つまり、江戸前芸者に象徴されるイメージと対照的なもの(「田舎女」)とされているのは明らかである。そして、その竹の向かいに、「御さんどん」に囲まれた「琉球の王様」がいるという。

 漱石の論評は、画に対するものであり、琉球藩王や侍女達そのものに対してではない。とはいえ、「田舎女の顔に比すべき竹」の向かいにいる、いずれも「御さんどん」である侍女たちに囲まれた「琉球の王様」が、もはや、「王様」の名に値しないのは言うまでもないであろう。

 評者・漱石は、「琉球藩王」に対する画家の視線、つまり、東京方面(中央)の人間の冷めきった視線を確かに受けとめたのである[3]

 なお、1911年には、沖縄県出身者初の東京帝国大学文科大学入学者である伊波普猷(いはふゆう)が、琉球伝来の歌謡集『おもろさうし』を読み込んで『古琉球』を刊行しているが、漱石の視界には入らなかったようだ。

 

 また、「日記」中に、「流(〔琉〕)球通ひの朝日丸」(⑳381)というのがある。1912(明治45)年5月、「御作」という老妓から聞き取りをした際の御作の話で、鹿児島にいたが、旦那に体よく追い出されて、「船にのる積(〔つもり〕)で宿屋へ行くと其所で流球通ひの朝日丸の事務長の△さんにひよつくり出逢つた。」「酒を飲んだ勢いで室へ這入つて来て、話をし出して、〔中略〕酒のやりとりをした。下女は驚ろいた。夫があとから新聞に出て、其事務長と訳があるやうに書かれたのださうである」というものである。

 「流球通ひの朝日丸」の「事務長」の、性的に自由・放埒な行状を窺わせる話である。「御作」の話だとはいえ、これが、琉球伝来の性風俗をとりあげて、琉球(人)は性的に放縦だとする言説(偏見)と親和性を持つものであることは言うまでもない。

 

「土蕃」

 ドイツの大塚保治宛てに熊本から出した手紙(1896〔明治29〕年7月28日付。22-105)に次の一節がある。

 

 小生は東京を出てより松山、松山より熊本と、漸々西の方へ左遷致す様な事に被存候へば、向後は琉球か台湾へでも参る事かと我ながら可笑(〔おか〕)しく存居候。為朝か鄭成功の様な豪傑になれば夫でも結構と思ひ候へども、愈土蕃と落魄しては少々寒心仕る次第に御座候(句読点引用者)

 

 自分を笑ってみせるユーモアと割り引いても、注目すべき点がある。

 「西の方へ左遷致す」とは、「西の方へ」移住することは東京(中心)からの「左遷」、言い換えれば、都落ちだと表現されている。

さらに、それを延伸して、「向後は琉球か台湾へでも参る事か」と、西へ西へ落ちていく、地の果てまで落ちていくという感覚がある。おそらく、新聞小説「明暗」の「小林」の言う、「都落(みやこおち)」「朝鮮へ落ちる」、そして、「朝鮮三界(さんがい)」という言葉[4]の元になっている感情である。

 同時に、それが、歴史上の参照項を持っている。琉球には「為朝」、台湾には「鄭成功」の記憶が呼び起こされるのである。前者は、昔(平安後期)、源為朝が(自害せずに逃れて)琉球へ渡って琉球王の祖になったという伝承で、滝沢馬琴の『椿説弓張月』であらためて脚光を浴びたものである。後者は、長崎(平戸)に生まれ、明の遺臣として戦い、台湾をオランダ統治から解放した人物である。近松門左衛門の「国性爺(こくせんや)合戦」で知られる。

 ただし、漱石の形容は、こうした江戸時代から地続きの物語の枠におさまってはいない。為朝や鄭成功のような豪傑になるならまだしも、いよいよ「土蕃」に落ちぶれては心寒いというのである。

 通常、江戸時代の本、たとえば、『頭書増補 訓蒙図彙』(寛政元年)の絵では、「琉球」(琉球国・中山国)は優美な服を纏った王、台湾を指す「東蕃」(たかさご)は半裸の戦士で表現される。琉球がしかるべき国であることは、琉球に江戸への使節(慶賀使・謝恩使)を派遣させ、公方様(将軍)の御威光を世間に知らしめたい御公儀(徳川政権)が望んだものなのである。

 ところが、漱石の想像力の中では、琉球は、「土蕃」(台湾の原住民の一部を呼ぶ名)に吸収されている。つまり、琉球(人)は、台湾(人)に吸収され、同時に、消去されているのである。 

 なお、漱石のこうした言葉は比較的若い頃のものであるとはいえ、その後変化したということでもない。なにしろ、沖縄・琉球への言及の絶対量が少ない。全体を覆う無関心、あるいは、徹底的な無視、無知は覆うべくもない。

 

 以上のように、漱石は、沖縄・琉球の人間について、一言も書いていない。漱石には、沖縄在住であれ、東京等であれ、沖縄・琉球の人間は見えなかった、ないしは、見なかったのである。

 また、こうして見ると、それほど高いとも見えなかった漱石の朝鮮に対する関心は、沖縄と比べるとじつは非常に高く、また、時の時事的・政治的レベルにまで達していることがわかる。

 漱石に対しては、連載「満州ところどころ」の一部にみられるように、異民族に対して排他的・差別的であるという批判があり、そうではないとここで言いたいわけではないのだが、それにしても、漱石の沖縄に対する無関心は、いったいこれはどうしたことかというレベル、存在自体を認知しないというレベルなのである。

 では、ひるがえって、どうして、漱石作品、すなわち、漱石の世界・想像力の中に、朝鮮は「ある」のだろうか、そして、では、なぜ、沖縄は「ない」のであろうか。

 

2.見える朝鮮

 

 鈴木穆

 漱石の朝鮮への関心は、妻・鏡子の親戚筋(妹婿の弟)である鈴木穆(しずか)との関係によるところが大きい。つまり、身内のつき合いに関わるものである。とはいえ、鈴木は韓国統監府の高官なのであるから、はじめから極めて政治的・時事的なものをはらんでいた。

 1909(明治42)年4月5日の日記に、「鈴木の葬式」に行った「細君」のことがあり、ここではじめて「鈴木の穆さん」が出てくる。「細君鈴木の穆さんより二十五本入のマニラ価十五円程のものをもらつて帰る。穆さんが朝鮮から持つて来たものださうだ」(⑳19)と。朝鮮から来た「穆さん」は、漱石にささやかな贅沢を味会わせてくれる人間でもあるのである。

 14日には鈴木自身がやって来た。「昨日鈴木穆来。色々朝鮮の話を聞く」(15日)。「物騒な頃謁見の為め参内した模様は面白かつた」と、漱石は無邪気にまとめる。

 第二次日韓協約(乙巳条約、1905年11月)を元に、統監(伊藤博文)及び統監府が設置された(また、この協約で韓国の外交権が日本外務省の管理下におかれた)のが1906年2月。翌7年6月には、その第二次日韓協約の無効を訴えるため、高宗がハーグの万国平和会議に特使を送り込もうとして、挫折した。7月3日、伊藤(統監)が高宗の責任を追及し、19日、高宗は譲位する[5]。数日後、第三次日韓協約が締結された。

 こうした「物騒な頃」のどこかで、統監府の高官である鈴木は、「謁見の為め参内した」のである。漱石はその模様が「面白かつた」という。

 1909年5月末に執筆開始した「それから」には、「代助はやがて書斎へ帰つて、手紙を二三本書いた。一本は朝鮮の統監府にいる友人宛で、先達(せんだつ)て送つて呉れた高麗焼の礼状である。」(⑥71)とある(「五の二」)。朝鮮へ帰ってからも、鈴木は漱石の気に入りそうなものを送ってくれたのであろう。

 「それから」を脱稿した漱石は、親友・中村是公に誘われて、満鉄招待の満韓遊歴に出る。漱石は、京城(漢城)では、10月7日から「鈴木の家」で一、二泊するつもりであったが、日本では味会えない快適な生活が気に入り──鈴木はちょうど新築の官舎(「立派な清潔な家」)に移ったところであった。また、「穆さんは馬を二頭持つてゐる。日本なら男爵以上の生活だ」(鏡子宛10月9日付書簡)──結局六泊して、13日の朝出発することになる。

 鈴木を通して朝鮮の話を聞いていた漱石にその自覚は乏しいのだが、親友に誘われるまま出掛けていき、そして、京城では友人の快適な家に泊めてもらっただけのはずの満韓遊歴は、その親友とは満鉄総裁中村是公であり、友人とは統監府高官鈴木穆であるという単純な事実によって、別の意味を持ち得る。

 その別の見方、別の世界を叩きつけたのは、ハルピン駅での義兵(安重根)とのすんでのところでの遭遇(異常(ニア・)接近(ミス))[6]であったのではないだろうか。義兵による伊藤博文射殺そのものは、「門」の主人公・宗助は他人事として受け止めている。おそらく、作者もそうであったのであろう。だが、「現に一ヶ月前に余の靴の裏を押し付けた」(「満韓所感」、『満州日日新聞』11月5日付)プラットフォームで、命を賭して伊藤を狙撃した義兵がいたこと、しかも、倒れかかる伊藤を親友・是公が抱いていた等の事実は、漱石に自分のいる場所・位置を自覚させずにはおかなかったのではないだろうか。安重根の陳述を含む公判速記録が送られて来た[7]とあっては、なおさらである。

 かくして、漱石は、日本と日本人が、朝鮮と朝鮮人から大々的に収奪しており、ついには、韓国という国まで奪いつつあるという事実に直面するのである。

 

3.見えない沖縄

 

 以上のような、漱石と朝鮮との、深く、かつ、ダイナミックに動く関係と比べると、漱石と沖縄との関係は、深い関わりもなければ、動きもない。

 まず、おそらく、漱石には、沖縄在住の人間、あるいは、沖縄出身の人間と接点がなかったのであろう。漱石の友人たちで沖縄まで行って就職する人間はまずいなかった。頭の中で唯一可能性があるとしたら、西へ西へと流れて行った自分自身に他ならない。

 とはいえ、これは自然にそうなったというものではない。生え抜きのエリートではないが、破天荒な行動力には事欠かない漱石の友人たちは、帝国の開拓者たるべく、帝国の末端・辺境に散らばって活躍することを望んだ。そして、そこが、カネのなる所、機会の生まれる所であった。同時に、戦争が行なわれる所でもあった。それが、満州であり、朝鮮なのである。

 沖縄は、こうした「前線」ではない。

 

 そして、第二に、政治的に言っても、沖縄は争点にならず、そこで戦争もなかった。新聞が、(たとえどんな意味だとしても)華々しく取り上げる場所ではなかったのである。

 

4.下関条約での琉球問題消去

 

 じつは、争点にしない・させないことこそ、廃藩置県(1871年8月〔明治4年7月〕)後真っ先に問題にした琉球の「両属」(薩摩藩への服属を通じて将軍の御威光に服していた、同時に、清国から冊封を受けて国を運営していた)という難問の処理の仕方であったのである。

 1872(明治5)年、日本政府からの要請に応えて、「王政御一新」の祝賀のために慶賀使を送った琉球国(同時に日本では鹿児島県の管轄下)は、東京で、「琉球藩王」という称号を王に与えられた。そして、琉球と諸外国との交際は(「私交」とみなされ)外務省の管轄とされた。だが、清国との冊封関係が消えたわけではないから、琉球国もその国王もなくなったわけではない。こうした「両属」状態に苛立つ日本の新政府は、なんとか決着をつけて国境を画定しようとした。(とはいえ、清国との国境を画定するという意味であり、琉球、台湾は処理の対象である。)

 台湾出兵問題(琉球船が台湾に漂着して乗員が殺戮された事件に対する報復として、日本が台湾に出兵した)で、清国との交渉(1874年9-10月)に臨んだ初代内務卿大久保利通は、万国公法では、「政権」が及んでいない土地(台湾「蕃地」)は「版図」とは認められないという論陣を張った。だが、すでに、駐日イギリス公使パークスは、「大兵を他国の領地に送る」ことは「戦争」とみなされても仕方がなく、「万国公法」違反であると批判していた(『日本外交文書』七)し、また、駐清イギリス公使ウェードは大久保に会って、台湾の全島は清国に属するというイギリスの見解を伝えた(同)[8]。言い換えれば、台湾は清国の版図であるという立場をとる大英帝国と清国自身を敵に回して戦争をすることは、(たとえ、アメリカ合衆国方面から少なからぬ励ましがあったとしても)できない相談だったのである。

 したがって、台湾出兵問題をめぐり清国との間で結ばれた北京条約(1874年10月31日)の大久保にとっての重大な意味は、台湾問題そのものというより、まずは琉球問題にあった。すわなち、日本の台湾への出兵が「義挙」であるという論理を認めさせたこと、言い換えれば、(殺戮された)琉球人が日本人である(つまり琉球が日本領である)と清国に認めさせたと(勝手に)解釈し得るということであった。大久保は帰国後早速、「琉球藩処分」に関する建議を行い、琉球併合への第一歩を踏み出す。

 そして、翌1875(明治8)年6月には、内務省官員松田道之を那覇へ派遣して、清国との朝貢関係を断ち、冊封を廃止し、明治の年号を用いるように迫った。だが、当然ながら琉球は受け入れない。1879(明治12)年6月、琉球処分官松田を先頭に軍事力で首里城に乗り込んで、琉球藩を廃し、沖縄県を置いた。藩王、つまり、最後の琉球国王は東京移住を命じられ、ここに琉球王国は滅亡する。同時に、この挙は清国の怒りを買い、最終的な決着は、日清戦争で日本が清国に勝利して、下関条約(1895〔明治28〕年)で台湾の日本への割譲を認めさせるまで持ち越される。

 こうして琉球問題は「台湾」問題として決着した。問題自体が封じ込められ、消去されたのである。

 

 漱石の世代にとり、琉球問題はこういう形でようやく“片づいた”。

 じつは、大塚保治宛書簡(1896〔明治29〕年7月28日付)に現れている漱石の意識──「琉球か台湾へでも参る」、「為朝か鄭成功の様な豪傑」になればそれでも結構だが、と言っておきながら、いよいよ「土蕃」になってしまっては、とだけ言って事足れりとする──は、琉球問題を「台湾」問題として処理した(つまり、琉球問題を「台湾」問題に吸収して消し去った)大日本帝国の手並みを正確に反映しているのである。

                                                     (2018年5月記)

 

 

[1] 拙稿「漱石の足跡──戦争・朝鮮に関わるものを辿って」(2018年4月)を参照。

[2]夏目金之助『漱石全集』(岩波書店、1993-1999年)の、たとえば第一巻を「①」と略記し、その後に頁数を示した。

[3] ちなみに、沖縄が「内地」に対する気後れ感にこの頃苛まれたとしたら、それを醸成するだけの磁場が内地の側、具体的には、文化的中心としての東京にあったと言えるのではないだろうか。

[4] 前掲拙稿、5を参照。

[5]これに対して、漱石は、「日本から云へばこんな目出度事はない。もっと強硬にやってもいゝ所である。然し朝鮮の王様は非常に気の毒なものだ。〔中略〕あれで朝鮮が滅亡する端緒を開いては祖先へ申訳がない」(1907年7月19日付小宮豊隆宛書簡)と反応している。

[6] 前掲拙稿、4を参照。

[7] 漱石の蔵書中に『安重根事件公判速記録』(1910年3月28日、満州日日新聞社)があり、それには、「材料として進呈 夏目先生 伊藤好望」という贈呈者からの書き入れがある。『満州日日新聞』の伊藤幸次郎(好望)から送られてきたものである。水川隆夫『夏目漱石と戦争』(平凡社新書、2010年)、197頁。

[8]勝田政治『大久保利通と東アジア──国家構想と外交戦略』(吉川弘文館、2016年)、90、107頁。

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