漱石の変化-夏目漱石は幸徳秋水をどう見ていたか
漱石の二面性──二つの漱石像
夏目漱石には、少なくとも連載「満韓ところどころ」(1909年10-12月)までは、中国人、朝鮮人、また、「クーリー」、坑夫(新聞小説「坑夫」)等を、自分とは隔絶した者(絶対的な他者)と見て蔑む視線があった[1]。
しかも、注目すべきことに、それは、日露戦争で次々と斃れていく将兵への愛惜、その将兵の身内(父や息子や夫を失う人々)への深い同情と同居していた。
こうした将兵への愛惜や身内への同情は、作品中に明示されている。将兵の例としては、「趣味の遺伝」(『帝国文学』1906年1月号)の「浩さん」、「草枕」(『新小説』1906年9月号)の「久一さん」、身内の例としては、新聞小説「三四郎」(1908年9-12月)の冒頭に登場する、戦争で「大事な子は殺される」と訴える「爺さん」、海軍の職工をしていた夫が、戦後大連へ出稼ぎに行ったまま仕送りが途切れてしまったと語る「女」等がそれである[2]。
それゆえ、漱石には常に二つのイメージがつきまとう。民衆の側に立って時の権力者を鋭く批判した像と、民衆を蔑視した像である。
だが、要するに、斃れた将兵とその身内に対する漱石のこうした想像力は、同じような状況におかれた「万国の人民」には──また、(自国さらに他国の)「労働者」にも──向かわなかった、二つの視線は同居していたということなのである。
「文学者」夏目漱石から見た幸徳秋水
たしかに、漱石は、堺利彦ら「社会主義者」の存在を少なからず意識していた。そこから、漱石は(労働者や被抑圧人民の側に立つ)「社会主義」に親近感を持っていたという評価もある。その点を検討してみよう。
まず、1905年10月、『吾輩は猫である・上篇』を上梓した時、堺(枯川)が、平民社の絵葉書(フリードリッヒ・エンゲルスの肖像写真付きのもの)で、「三馬の浮世風呂と同じ味を感じました」という感想を書いてよこした。漱石は、「社会主義者」枯川に、『猫』の最良の読み手を見出したはずである。
『都新聞』(1906年8月11日付)の「電車賃値上反対行列」の記事を友人深田康算が送ってきた時には、次のような返事をしている。そしてこれが、「社会主義」に親近感を持つ漱石像の、いわば物証になっている。
〔前略〕電車の値上には行列に加らざるも賛成なれば一向差し支無之候。小生もある点に於て社界(ママ)主義故(ゆえ)堺枯川氏と同列に加はりと新聞に出ても毫も驚ろく事無之候。〔後略〕(深田康算宛書簡、1906年8月12日付。22-541)
同記事には「堺氏の妻君」「夏目(漱石)氏の妻君」も行列に加わったとあり、漱石は、行列に加わってはいないが、値上げ反対には賛成だから自分の名前が出ても一向差し支えないと応じたのである。
なお、この行列は、堺枯川、森近運平をはじめ総勢十六人というもので、そこに自分の(「妻君」の)名が出ても一向差し支えないというのは、漱石らしい、へそ曲がりな、ないしは、勇気ある発言である。
とはいえ、「社会主義」に対する漱石の接近もこのあたりまでである。漱石のいう「ある点」ではないところ、たとえば、「社会主義者」の基本的な立ち位置──「万国の労働者」、すなわち、国境を越えた「労働者の連帯」という視座──の影響は受けなかったのである[3]。
ちなみに、中篇「野分」(1907年1月)の「道也先生」の演説ぶりには、幸徳秋水を思わせるものがある。だが、演説内容は、秋水のそれではなく、漱石独自のものである[4]。
「道也先生」は、「明治は四十年立つた」が、「まだ沙翁が出ない、まだゲーテが出ない」、「先例のない社会に生れたものは、自ら先例を作らねばならぬ」、「現代の青年たる諸君は大(おおい)に自己を発展して中期をかたちづくらねばならぬ」と、檄を飛ばすのである。
また、「野分」は、「白井道也は文学者である」という一文で始まる。これは、この小説が、明治の世における「文学者」というものを主題にするという宣言である。同時に、この定義・宣言は、幸徳秋水ら「社会主義者」との差別化を物語っているのではないだろうか。
漱石は維新後の教育を受けた第一世代である。その点では秋水もほぼ同様である。だが、東京、しかも、帝国大学近辺で中高等教育を受けて第一線の知識人(「文学者」)となった漱石と、高知の「民権」の息吹の中で育ち、十六歳で保安条例の対象となって東京を追放された「社会主義者」秋水とでは大きく異なるのである。
こうした漱石、すなわち、シェークピア(英語圏)やゲーテ(ドイツ語圏)に比肩しうる国民的文学の創造という課題を自ら担った漱石にとって、「日本」「日本人」という同一性・共同性は、自明の、重いものであった。それは、他方で、日本人以外との強い線引きの意識を伴ったと考えられる。
漱石の変化
だが、漱石が同時代人として意識していた秋水らは、乱暴に処刑されてしまう(「大逆」事件)。
新聞小説「行人」(1912年12月-1913年4月、同年9-11月)、「心」(1914年4-8月)は、何らかの意味で漱石の混迷と苦しみの痕跡である。
孤独に苛まれながら新聞小説「心」を描き上げた漱石は、第十二回衆議院議員総選挙(1915年3月)を前に、朝鮮半島に常駐が予定されていた「陸軍二個師団増設絶対反対」を掲げて立候補した馬場孤蝶の推薦人に、堺利彦らとともになるという決断をしている[5]。
こうした、社会での立ち位置の変化、感覚・感情の変化は、どのあたりから始まったのであろうか。
まず、「満韓ところどころ」の連載自体が奇妙である。「満韓ところどころ」という題名の、いわば読者への報告であるにもかかわらず、ハルピンもなく、韓国にいたっては全くない。しかも、「余」が撫順の炭坑の奥底へ降りていくところ、すなわち、坑夫に出会う手前で止まっている[6]。
すでに義兵(安重根)によるハルピン駅での伊藤博文射殺に深部での衝撃を受けており、漱石は、「坑夫」を描く気になれなかった、言い換えれば、自分と対象との位置関係を決めることができなかったのではないだろうか。
つづく新聞小説「門」(1910年3-6月)の最終部分で描かれる宗助のただならぬ動転も唐突である。そして、これに対する、「これ程偶然な出来事を借りて、後(うしろ)から断りなしに足絡(あしがら)を掛け」られた[7]、あるいは、「偶然の度」が「あまりに甚だし」い出来事に不意打ちを食らった、という作者の説明も、危うくあの「安井」と鉢合わせになるところだったという状況の説明にしては大げさ過ぎないだろうか。小説の展開のこうした無理(唐突な動転や大げさな説明)は、何か別のことを念頭においているのではないかという思いを抱かせるのである[8]。
次いで漱石は、伊豆修善寺での胃の病状急変による長期の入院中に、見舞客、なかでも坂元雪鳥(漱石の教え子で『東京朝日』記者)らを通して、「日韓併合」(1910年8月末)の顛末、幸徳秋水ら逮捕の続報を聴くことになるのである。
(2018年5月記)
[1] 拙稿「漱石の感覚」(2018年5月)を参照。
[2] また、後のことになるが、「日記」(1911年5月21日)には、えい子(三女)が八つ位の学校友達を連れて来た時、「あとから二人遊んでゐる所へ行つて、あなたの御父さんは何をして入(い)らつしやるのと聞いたら御父さんは日露戦争に出て死んだのとたゞ一口答へた。余はあとを云ふ気にならなかつた。何だか非常に痛ましい気がした」(⑳291)とある。
戦争の結果として、父親の顔を見たことがない人間が育っていくという現実を、「非常に痛ましい」と感じたのではないだろうか。
[3] また、新聞小説「坑夫」(1908年1-4月)での鉱山労働者の描き方からすれば、漱石が労働者による「革命」それ自体に共鳴していなかったのは明白であろう。拙著『漱石の個人主義』、240頁。
[4] 拙稿「漱石と旅順、漱石と京城(漢城)」、「付 「旅順」をめぐって──楠緒子、楚人冠、秋水」(2017年10月)を参照。
秋水の痩せた風貌や、鋭い皮肉を武器にした演説ぶりは、速記者・小野田亮正(翠雨)の『現代名士の演説振』が伝えている。これを見ると、「野分」第十一章で演説する道也の姿には、多かれ少なかれ、秋水を思わせるものがある。
秋水は、「小柄な、顔面痩せて、〔中略〕淋(さびし)気(げ)のある、然も何処かに凄みのある、一寸(ちょっと)侵し難い容貌を持って居る」(同書)。他方、道也先生は、「ひよろながい」、「から\/の古瓢箪の如くに見える」。また、「当代の皮肉先生」(同書)といわれる秋水は、臨検の警察官を挑発し、聴衆を手に汗握る駆け引きに巻き込んでいく。道也先生の演説の描写には臨検警官は登場せず、駆け引きの相手は、「蛇の如く鎌首を持ち上げて待構へてゐる」聴衆である。作者はこの駆け引きを「角力(すもう)」に喩える(「彼等に一寸の隙でも与へれば道也先生は壇上に嘲殺されねばならぬ。角力は呼吸である」)。道也は最後にはこの聴衆を巻き込んでしまう。
なお、同書の刊行は1908年8月、すなわち、「野分」の発表より後であるから、漱石が演説する秋水を直接目にした可能性もある。
[5] なお、森田草平と生田長江が創刊(1914年4月)した雑誌『反響』では、漱石が題字を引き受け、堺利彦が常連の寄稿家となっていた。
[6] 拙稿「漱石と旅順、漱石と京城(漢城)」(2017年6月)、4「連載切り上げと「クーリー」」を参照。
[7]「彼はこれ程偶然な出来事を借りて、後(うしろ)から断りなしに足絡(あしがら)を掛けなければ、倒す事の出来ない程強いものとは、自分ながら任じていなかったのである」。
[8] 拙稿「漱石の足跡」(2018年4月)、4「旅順と京城(漢城)」を参照。
著者解題
1.「漱石の足跡──戦争・朝鮮に関わるものを辿って」(2018年4月)
2.「大久保利通と「公娼」」(2018年5月)
3.「夏目漱石と沖縄」(2018年5月)
4.「漱石の感覚」(2018年5月)
5.「漱石の変化」(2018年5月)
「漱石の足跡─戦争・朝鮮に関わるものを辿って」
戦争・朝鮮に関わる夏目漱石の足跡(作品や書簡など)を辿りました。冒頭で、「王妃の殺害」が「近頃の出来事の内尤もありがたき」事だ、という漱石の言葉を考察します。
「夏目漱石と沖縄」
漱石の沖縄・琉球の描き方(「ない」)を、朝鮮(「ある」)との対比で書いています。
なお、4に、「琉球処分」にいたる過程に関するある見方(「琉球が日本領だと清が認めた」と日本政府が思い込んだというレベルのものではない)を入れてあります。これは、「大久保利通と「公娼」」とも関係します。
「夏目漱石と沖縄」と、「大久保利通と「公娼」」
「大久保利通と「公娼」」は、拙著『公娼制の政治過程』のはじめの部分(いわゆる征韓論政変の前後)を、大久保利通(初代内務卿)の動きという観点から整理したものです。
「夏目漱石と沖縄」の4と合わせると、二つで、日本政府の公娼問題、琉球問題の処理を、新政府の実質的統率者である大久保利通の動きという観点から見たものということになります。こうすると、公娼問題と琉球問題が地続きであることがわかります。
また、内務卿大久保・伊藤を通じた、公娼問題・琉球問題・朝鮮問題の処理の仕方の連続性を多少とも明らかにできたのではないかと思います。(「公娼」処理も、琉球処理も、大久保が手がけて伊藤が引き継いだものです。)
「夏目漱石と沖縄」と、「漱石の感覚」
「夏目漱石と沖縄」と同様の素材を、「漱石の感覚」では、漱石の“差別発言”をどう見るかという観点から論じました。
「漱石の変化」
「漱石の感覚」を受けて、では、「夏目漱石は幸徳秋水をどう見ていたか」を考察し、その漱石が、いつ、どのようにして変化したのかを探ります。
なお、「漱石と旅順、漱石と京城(漢城)─「満韓ところどころ」と「日記」のあいだ」(2017年6月、「付」は 2017年10月)が、以上の論考の出発点をなすものです。
(2018年5月記)