まえがき
夏目漱石は講演「模倣と独立」(1913〔大正2〕年12月12日、第一高等学校)で、「私は人間を代表すると同時に私自身をも代表している」と述べた。同様に、「親鸞上人は、一方じゃ人間全体の代表者かも知らんが、一方では著しき自己の代表者である」ともいう。
つまり、自分は、「私自身を代表している」「自己の代表者である」というのである。このように「私自身」「自己」をうちだすのが、漱石の著しい特色である。
続けて、「その私自身を代表している所から出立(しゅったつ)して考えて見ると、イミテーションという代りにインデペンデントという事が重きを為さなければならぬ」という。つまり、模倣、すなわち、人類の蓄積したものの中から習得することはたしかに必要なのであるが、その先の、独自のもの、「インデペンデント」の面を拓くことが肝要であると説く。このように漱石は、人間一般にとどまるのではなく、自分独自の面を開拓していくことを力説する。総じて、「自分」をいうものを大事にして、その可能性を最大限引き出していこう、つまり、「自己」を実現していこうと呼びかけるのである。
他方、社会的には、各自の「個性」、各自が持って生まれた可能性をこの世で実現していくことに最大級の価値を置く。翻って、強者、具体的には、金と地位を手にしている者が、それを元手に、金も地位もない貧民に自分の個性を及ぼしていくと厳しく批判する。
一年後の講演「私の個人主義」(1914年11月25日、学習院輔(ほ)仁会(じんかい))では、それぞれが「自己の落ち付くべき所」まで行って「個性が益(ますます)発展して行く」ことが幸福と安心をもたらすとする。そのうえで、聴衆に、貴方(あなた)方は、権力、金力を貧民よりも余計に所有していると指摘し、その際、「権力」とは、「自分の個性を他人の頭の上に無理矢理に圧し付ける道具」、ないしは、「そんな道具に使い得る利器」であるという。また、「金力」とは、「個性を拡張するために、他人の上に誘惑の道具として使用し得る至極重宝なものになる」という。つまり、「権力と金力とは自分の個性を貧乏人より余計に、他人の上に押し被(かぶ)せるとか、または他人をその方面に誘(おび)き寄せるとかいう点において、大変便利な道具」であり、したがって、「その実非常に危険」なのだという。
このように、漱石の「個人主義」とは、「個性」の尊重という思想、すなわち、人間それぞれの独自性・独創性を発現させるべきだという信念である。そうした漱石は、貧富の問題も、各自の個性、持って生まれた可能性のこの世での実現という観点からとらえ、それを「権力」「金力」批判の足場とするのである。なお、「兄の個性が弟を圧迫」することもこうした抑圧の一つに数えており、漱石自身、兄弟間の熾烈な争闘のサバイバーではないかと疑われる。少なくとも、弟・金之助は、自分というものが押しつぶされると感じていたのではないだろうか。
なお、自分の「個性」を(自分自身が)活かしていく以外ないというこうした信念を、漱石は、イギリス留学から帰国後の一九○五、六年頃、もがいた末に手にしたとみられる。この頃手帳に、「×己を信ずるが故に神を信ぜず」「×尽大千世界のうち自己より尊きものなし」「×自を尊しと思はぬものは奴隷なり」等、また、「寂滅為楽の後極楽に生るゝは此世にて一寸たりとも吾が意志を貫くにしかず。〔中略〕/われは生を享く。生を享くとはわが意志の発展を意味する以外に何等の価値なきものなり……」(「断片 三二D」、⑲201)と書きつけている。神や仏ではなく、信じるのは自分以外にないということである。(ちなみに、この少し後には、「昔の人は己を忘れよと云ふ。今の人は己を忘るゝなと云ふ。二六時中己れの意識を以て充満す。故に二六時中大(〔太〕)平の時なし。」とも書きつけている〔同203〕。今を「Self-consciousのage」〔同204〕としており、近代を、個と個、個性と個性の、言い換えれば、自意識を持った人間同士がぶつかり合う時代ととらえているのである。)講演「私の個人主義」では、こうした考えを、「自己本位」、すなわち、「自分が主で、他は賓(ひん)であるという信念」とまとめ、この信念をこの頃握ったとしている。
以上のように、漱石は、自分が自分の可能性を実現していくことに最大級の価値を置き、人間それぞれが独自の面を拓いていこうと呼びかける。同時に、この自分を題材に、自己・己・我・私とはどういうものなのか(同時に、個性と個性の競合の時代に人間はいかなる心理を交わし合うのか)を小説でとことん追求していく、換言すれば、自分(私)というケースを手に、人間の心というもの(心理現象・心理過程)を探求していくのである。
本書の第一部「私の個人主義」では、私は「私自身を代表している」という漱石の言葉、自分へのこだわりを手がかりに、漱石の、分かりやすそうで、その実、そう分かりやすいとはいえない作品群を読み解いていく。
漱石の小説には、男・女・男の“三角関係”が見え隠れする。そこから、漱石にはじつは‘意中の人’がいたのではないか、はたしてそれは誰なのかという議論が盛んに行われてきた。第一章「「文鳥」「夢十夜」「心」から探る“意中の人”──「それから」の前夜」は、この問いにある答を提示する。美しい小鳥(女性の暗喩)を愛でた「文鳥」に続く短篇「心」では、小鳥は「まだ見た事のない鳥」であるとされている。つまり、“意中の人”は途中で入れ替わっているのである。そして、後から登場したこの女性こそ、「それから」以後の“三角関係”で念頭に置かれていると考えられる。
第二章「楠緒・保治・金之助──テキスト外のこと」では、「それから」から小説「心」までの男・女・男の“三角関係”の背後には、大塚楠(くす)緒(お)・小屋(こや)保(やす)治(じ)・夏目金之助という三者の関係があるとみる。
第三章「愛せない男──市蔵(「彼岸過迄」)の燃えない愛と燃え上がる「嫉妬心」」では、「彼岸過迄」(「須永の話」「松本の話」)で市蔵の「嫉妬心」「僻み」に焦点を当てる作者が、自分はどうしてあの女を(恋の対象として)愛せなかったのか、およそ結婚する気になれなかったのかという問題(自我の有り様、内面・心理)と格闘していると提起する。
第四章「「行人」──猜疑の拡散と、震源地・愛嬌のない女」では、二郎の嫂・お直とは、江戸文芸における恋の型(「惚れる女・惚れられる男(惚れない男)」)を前提に、それとは異なる、愛嬌を振りまくのではない女、言い換えれば、江戸文芸における「男」の型を基に造形された女であると提起する。
「行人」はわかりにくい(もっとはっきりいえば、何が何だかわからない)と従来みられてきた。そのわかりにくさの一因は、「語り手(自分)」の語る内容を作者が保証していない──語りの確かさを作者が保証しておらず、それがはたして真実なのか、何が事実なのかが留保されている──からではないだろうか。言い換えれば、語りは、あくまで「行人」、つまり、「使い」二郎の語りとして宙に浮いているのである。こうした描き方には漱石の作家としての凄みが感じられる。というのも、私たちは「自分」が必ずしもよくわからないまま、自分の物語を紡ぎ合っている、交渉し合っている──しかも、その際、それぞれ独特の思い込み・認識枠組・思考のクセを持っていることが少なくない──ということを象徴的に描き出しているからである。さらに言えば、こうした二郎こそ、じつは作者自身であるということではないのだろうか。なお、連載中断後五ヶ月余りして再開された小説(「塵労」)には、この種の二面性・不確定性はすでにない。そこでは、振り子は一方へ振り切っている(狂気の夫・忍耐の妻)。
また、付「「行人」の二郎と三沢」では、「二郎」のみならず、「三沢」もまた、楠緒をめぐる作者自身ではないかと提起する。つまり、「二郎」とは楠緒存命中の自分、「三沢」とは入院中に楠緒を失った自分が素材であるとみる。
第五章「「現代の青年に告ぐ」から「先生の遺書」へ──「野分」と「心」の間」では、「心」をその八年前の「野分」という補助線を引いて読み、その異同、その理由・脈略を探る。というのも、「野分」は、(追いかけてきた)弟子と師との関係が主軸であるという点で、主題が「心」(なかでも「先生と私」)と同様であり、にもかかわらず、その内容が正反対であるからである。ちなみに、「野分」に当初作者が付けた題名は「現代の青年に告ぐ」であり、他方、「心」には「先生の遺書」という、これとは対照的な副題が連載時に付けられていた。
なお、「心」は、「私」の語り(「先生と私」「両親と私」)と「先生」の語り(「先生と遺書」)という、二つのモノローグが並んでいるだけの構成になっている。つまり、「地の文」、すなわち、モノローグ間の関係を示すものがないのである。そこに様々な読みの余地が生まれる。
また、若い「私」の語りがいま一つわかりにくいのは、「私」がじつは「行人」(使い)であるからではないかと提起する。
第六章「「道草」等に見る、子どもに対する精神的(メンタル・)虐待(アビュース)の諸形態」は、主に「道草」を題材に、漱石が幼年・少年期に受けたと考えた、今日の言葉で「虐待」といいうるものを整理していく。ただし、「道草」では母に関することが抹消されているので、その意味を探る。
以上のように、第一部は、漱石にはじつは“意中の人”がいたのではないかという、長年関心を呼びつつも、漱石研究では概して軽んじられてきた論点を正面に据えている。それは、この問題、すなわち、主人公(我)を脅かす他者としての「女」(及び彼女に連なる男)という問題が、漱石の「自我」の探求(同時に他(ひと)との交渉)、したがって、その著述の中軸にあると考えるからである。なお、このことは、「成る可(べ)く自我を傷(きずつ)けない様に」と祈る、「自我より外に当初から何物も有(も)っていない男」市蔵(「彼岸過迄」)の、(男女の)「自我の交渉」、「男女の戦い」に対する躊躇として端的に表されているといえるであろう。
第二部「漱石とその時代 ──性別・階層・国の壁」では、性(性別)、階層、そして、帝国の中心(わけても帝都東京)と満州・朝鮮という社会的規模の問題に、自分を題材に自我・人間心理を飽くことなく追求する漱石がどのように対応したかを探る。
概して、漱石はこうした差異に比較的敏感であり、ついには「明暗」で、人々それぞれが頭の中に形成した差異(それぞれの自我、内面・心理)をもって交わる様を描き出す。翻って、そうした頭の壁から作者自身が自由であったかといえば、そうとはいえない。批判的にとらえる時もあるが、強く影響を受けたままの場合もある。具体的には、それはどのような有り様だったのか、どんな過程をたどっていったのかを探る。
第七章「「三四郎」の“絵を描く女”と野上弥生子の「明暗」」では、「三四郎」には、美禰子のほかに、隠れたヒロイン「よし子」(野々宮の妹)がいると指摘し、漱石が両者を対照的に描いて、じつは後者に軍配を上げていることを明らかにする。つまり、作者は、美禰子とよし子という、絵を描く女を二人登場させて、そのうち、水彩画と明記されたよし子に画家になる可能性を与えたのである。
じつは、このよし子は、野上弥生子の中篇「明暗」のヒロイン「幸子」(「洋画研究会唯一の女性で、其天賦の画才と容色の美を持って、評判の高い女」)を──自分の“女の画家”像に沿って──描き換えたものではないかと考えられる。他方、「男」(配偶者)を自分の目で選ぼうとする誇り高き「幸子」の面影は、作者が違和感を隠さない「我の女」藤尾(「虞美人草」)に窺える。(言い換えれば、自意識と自意識がぶつかり合う近代に、「女」まで入れたくない、「女」は別枠としてとっておきたいという作者の願望がそこにはあるのである。)
同時に、漱石は、弥生子の(「明暗」ではなく)短篇「縁(えにし)」を「どこから見ても女の書いたもの」であり、しかも「嬉しい情趣」を表現し得ていると絶賛した。こうして、自分の望むとおりの“女の小説家”として世に送り出したのである。他方、これに応えた弥生子が、自身の最初の作品「明暗」を世に出さないことにした可能性もある。
なお、“女の小説家”への漱石のただならぬ関心は、心理洞察に踏み込んだ「ジヨージ・エリオツト」(George Eliot)に自身が傾倒していたことに由来するであろう。帝国大学での最初の授業(1903年4月)は、「英文学概説」(講義)とエリオットの「サイラス・マーナー」(Silas Marner)(英語講読)であった。漱石は、ある時「ジヨージ」が男ではないと気づいて愕然としたことがあるであろうし、帝国大学文科大学の学生は、漱石によってその事実に直面させられたのである。同時に、漱石は、自分が自分を解剖するような心理描写に向かいながら、日本の「女の小説家」には別枠を用意して、「嬉しい情趣」を表現するように求めたのである。
第八章「幸徳秋水(「それから」)・満韓遊歴(「韓満所感」「満韓ところ\/」)・安(アン)重根(ジュングン)──漱石が1909年から1911年にかけて経験したこと」では、東京では、(大逆事件の前哨戦ともいえる)幸徳秋水等の『自由思想』創刊に関する弾圧を「それから」に描き、その後、満鉄(直接には親友の満鉄総裁中村是公)の招待で「満韓」遊歴に出れば、帰国直後、ハルピンで伊藤博文が狙撃され、倒れかかる伊藤を是公が支えていたという、この時期の漱石の経験をたどっていく。
『満州日日新聞』に掲載された「韓満所感」には、「満韓の同胞」は「皆元気旺盛で進取の気象に富んでゐるらしく見受けられる」とあり、こうした言葉の意味が問われる。
同時に、連載「満韓ところ\/」(東西両『朝日』)を、漱石が早々と切り上げてしまった理由を探る。つまり、「余」が撫順の炭坑の奥底へ降りていくところで唐突に終わってしまい、満州では長春・ハルピン等がなく、韓国に関しては全くないのは、どうしてなのかという問題である。
続く「門」の展開が、ある示唆を与えているように思われる。「門」では、冒頭近くに、「暗殺事件に就ては平気に見えた」宗助が、「やっぱり運命だなあ」と言って旨そうに茶を飲むという、その「平気」をこれでもかと強調する場面がある。ところが話の後ろの方で、「安井」が現れたと知るや否や宗助は青ざめる。そして、そこには、「普通の人が滅多に出逢わないこの偶然に出逢うために、千百人のうちから撰び出されなければならない程の人物であったのかと思うと宗助は苦しかった」、「彼は黒い夜(よ)の中を歩るきながら、ただどうかしてこの心から逃れ出たいと思った。その心は如何にも弱くて落付かなくって、不安で不定で、度胸がなさ過ぎて希(け)知(ち)に見えた」等の文脈上過剰とも思われる言葉が並んでいるのである。こうした言辞から推測すれば、あまりの偶然の連鎖、なかでも、是公が傍らにいた伊藤博文に対する狙撃者(安重根)の登場は、ついには、漱石の心の平安を打ち砕き、「不安で不定で」いても立ってもいられない状態に叩き込んだではないのだろうか。とすればそれは、占領者・近代日本が直面した現実が──「韓国併合」を前に──作者に引き起こした感情であった。
換言すれば、ややもすると小説として破綻しているとみなされる「門」は、じつは、「女」(御米)との関係で完全な安定を手にしていた主人公(宗助)が、(「蒙古刀」に象徴される)見えざる刺客「安井」への恐怖から、自我の崩壊、言い換えれば、世界観の崩壊の淵に立たされた様を描いているのではないだろうか。
第九章「進化する「細君」──「野分」「門」「道草」から「明暗」へ」では、「野分」から「明暗」までの細君の姿を追うことによって、性(性別)、夫婦の関係・対立という問題を漱石がどう扱っているのか、それがどう変化しているのかをみる。「吾輩は猫である」から「明暗」までという長い眼で見れば、江戸文芸の世界にどっぷりと浸っていた漱石は、ついに、夫婦の対等に向けた改革を志向するようになる。同時に、その射程は、ほぼ細君と良人、つまり、中間層の夫婦の関係に限られる。
第十章「持たざる者と持てる者──「明暗」の人々」では、「明暗」を、「持たざる者」「持てる者」の暗闘、なかでも、「持たざる者」たちの生きる有様とその行く末という観点から読む。ここには、講演「私の個人主義」にあった「権力と金力とは自分の個性を貧乏人より余計に、他人の上に押し被(かぶ)せるとか、または他人をその方面に誘(おび)き寄せるとかいう点において、大変便利な道具」であるという漱石の哲学が、小説として表現されている。また、津田・お延という夫・婦を中心に立てながら、同時に、小林・津田、小林・お延という関係を配置することによって、階層という問題を浮き彫りにして、その間の「自我の交渉」(「彼岸過迄」)を描いている。
他方で、総督府の下で「併合」が進む朝鮮は、「善良なる細民の同情者」を自認する小林の表象の中でいうなれば“朝鮮くんだり”である。彼は、「朝鮮へ落ちる」(「都落(みやこおち)」「駈落(かけおち)」する)に際して、「朝鮮三界(さんがい)まで駈落のお供をして呉れるような、実のある女」がいてくれれば、という願望を吐露するのである。
なお、漱石は「明暗」で、滝沢馬琴などの江戸文芸の前提のいくつかを採用し、その一部を乗り越えることを志したのではないかと考えられる。それは同時に、「女」の内面・自我について、“落としどころ”、すなわち、 作者が共感しうるような自我を持った「お延」を見いだしたということでもある。換言すれば、それが、「女」と「我」という、かつて作者がどうしても呑み込めなかった組み合わせ──女と自我(エゴ)は否定的にしかとらえられない(我をもった女は認められない)──の落ち着いた先であり、「女」の内面・心理の表現という苦闘の行方である。
概して、人々の自我がぶつかる様を見極めようとする漱石には、性別・階層・国に関わる格差などに関して、首を傾げざるを得ない言葉もみられる。また、こうした問題に対する漱石の接近は、あくまで自分の体験に根ざした、限定的なものである。同時に、それは、その時々に自分の頭で考えて、蝸牛のようにゆっくりだが「自分」なりに進んでいく──様々な「私」の実現を阻む差別化された構造と、「自我」を手に格闘しながら──ということであった。
以上のように、本書は、対面的な、身近な人間関係での「自我」の探究(第一部)という観点、社会的な規模での「自我」の探究(第二部)という観点という二部構成になっている。これを、漱石が描いた時系列に沿って見れば、たとえば、次のようになる。
「それから」の後、「満韓ところ\/」を経て「門」にいたる、つまり、社会など、より大きな規模での自我の探究(同時に他(ひと)〔見えない他者を含む〕との交渉)という課題に入っていくわけであるが、他方では、楠緒の孤立・病状の悪化が密かに進行しており、やがて、漱石入院中に楠緒が没する。
その衝撃下の漱石が退院後に描くのが、前者のテーマをさらに掘り下げた「彼岸過迄」「行人」「心」であるということになる。なかでも「心」では、恐怖に駆られた主人公(私)が、他(ひと)の自我を壊すという行為(精神的殺人・魂の殺人)に打って出る。同時に、それは、Kの自我(プライド、人としての統合性)が崩れ落ちる過程・瞬間を描くものとなる。(ちなみに、すでに作者は「虞美人草」の藤尾を、「我の女」、あるいは端的に「我(が)」と呼び捨てにし、その際、「地獄の風は我(プライド)! 我(プライド)!と叫ぶ」と「我(プライド)」というルビを振っている。つまり、「我」に、プライド、自意識という意味も込めているのである。)
つづいて漱石は、いったん、自分(自我)の生成過程の探求にまで戻り(「道草」)、「明暗」では、性別・階層等を刻印された人々(各自我・各自)が互いに交渉する様(「双互ノインターアクシヨン」〔「断片 三二D」、⑲200〕)を描こうとするのである。