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漱石と旅順、漱石と京城(漢城)──「満韓ところどころ」と「日記」のあいだ

1.漱石の旅順報告

2.旅順──戦争観の変化

3.京城の「鈴木夫婦」

4.連載切り上げと「クーリー」

付 「旅順」をめぐって──楠緒子、楚人冠、秋水

 

 拙著『漱石の個人主義──自我、女、朝鮮』第八章で、「漱石と朝鮮」という問題に取り組んだ。その続編にあたるものとして、夏目漱石の旅順、京城(漢城、現ソウル)体験について、「日記」と連載「満韓ところ\/」(「満韓ところどころ」)を元にまとめてみたい。

 

1.漱石の旅順報告

 

 旅順に関して、「日記」と「満韓ところ\/」(東西両『朝日』、一九○九〔明治四二〕年十月二一日-一二月三十日)を比べると注目すべきことがある。大連からの往復も含めて丸二日間の旅順訪問に、「満韓ところ\/」(五一回で切り上げ)で十回(二一回~三十回)をあてているのである。

 「日記」と「満韓ところ\/」からすると、この二日間の行程は次のようなものであった。一九○九(明治四二)年九月十日朝、橋本左五郎(かつて大学予備門[1]合格をめざして下宿していた時以来の仲間。今は東北大教授で蒙古まで調査に行く畜産学者)とともに大連を出発して、十時に旅順に着いた。佐藤友熊(同じく予備門合格をめざして成立学舎で学んだ仲間。今は旅順の警視総長)に率いられて、この日はまず、山腹に作られた「戦利品陳列場」をある中尉(「A君」)の案内で見てまわった。民政長官の「白仁さんから正餐の御馳走になった」あと、大和ホテルに宿泊する。すでに前日から、「満洲日々の伊藤君」が泊まっていた。翌十一日は、午前中「二百三高地」にのぼって「市川君」の案内で見てまわった。午後には、海、つまり、旅順港内を、海軍中佐「河野さん」の案内で小蒸気(こじょうき)に乗って見てまわった。そして、晩にはこの日の朝大連からやってきた「田中君」(満鉄〔南満州鉄道〕理事)にスキ焼きを御馳走になり、そして、翌朝は佐藤友熊に鶉(うずら)づくしを御馳走になって、大連へ戻ったのである。なお、戦利品陳列場では「A君」、二百三高地では「市川君」から、旅順要塞戦と「二百三高地」戦の体験談を聞いた。

 

旅順の市街・港・山

 より詳しくみると、九月十日の「日記」には、大和ホテルの二階の部屋から望む「新市街は、廃墟の感あり。〔中略〕港は暗緑にて鏡の如し。古戦場の山を望む」とある[2]。これが「満韓ところ\/」(二二回。以下「回」を省略)に、「旅順の港は鏡の如く暗緑に光った。港を囲む山は悉く坊主であった」、「丸で廃墟(ルインス)だと思」ったと描かれている[3]。つまり、新市街は廃墟であり、港は暗緑の鏡のように光り、山々は丸坊主であったということである。

 

旅順要塞

 山々に設置された砲台をめぐる攻防戦に関しては、「満韓ところ\/」(二五)に、「A君」から聞いた話がある。(彼の語る攻防戦は、東鶏冠山に設置された砲台に対して、はるか遠くからじりじりと──二ヶ月近くかけて──坑道を掘っていき、ついに攻め込んだ時のものである。)

 

その時両軍の兵士は、この暗い中で、僅(わずか)の仕切りを界(さかい)に、ただ一尺程の距離を取って戦(いくさ)をした。仕切は土嚢を積んで作ったとかA君から聞いた様に覚えている。上から頭を出せばすぐ撃たれるから身体(からだ)を隠して乱射したそうだ。それに疲れると鉄砲をやめて、両側で話を遣(や)った事もあると云った。〔中略〕あんまり下らんから、もう喧嘩は已めにしようと相談したり、色々の事を云い合ったという話である。

 

 ここでは、戦争が、究極までいくと馬鹿馬鹿しいものであるということが体験者によって如実に語られている。

 

二百三高地

 さらに、「「日記」の九月十一日には、「八時二百三メートル」とある。八時に「二百三高地」へ迎えが来るという意味である。続いて、「百七十四メートルの方激。味方の砲弾でやられる。その意味。」とある。これが「満韓ところ\/」(二七)で、「市川君」の体験談を交えて次のように描かれている。

 

 その時我々はもう頂(いただき)近くにいた。此処(ここ)いらへも砲丸(たま)が飛んで来たんでしょうなと聞くと、此処で遣られたものは、多く味方の砲丸自身のためです。それも砲丸自身のためと云うより、砲丸が山へ当って、石の砕けたのを跳ね返した為です。〔中略〕

味方の砲弾で遣られなければ、勝負の付かない様な烈しい戦(いくさ)は苛(つら)過(すぎ)ると思いながら、天辺(てっぺん)迄上った。

 

 「二百三高地」をめぐる攻防戦は、頂近くになれば、「味方の砲弾で遣られなければ、勝負の付かない様な烈しい戦(いくさ)」であり、そんな戦は、「苛(つら)過(すぎ)る」のである。

 さらに、「日記」には次のようにある。

 

 第一線の苦痛。糧食の夜送。雨。水の中にしゃがむ。唇の色なし、ぶるぶる振う。馬がずぶずぶ這入(はい)る。

 六月より十二月まで外に寐る。人間状態にあらず、犬馬也。血だらけ。

 

 「満韓ところ\/」(二七)によれば、市川君は、「当時の日本軍がどう云う径路をとって、此処へじりじり攻め寄せたか」を生々しく語ったのである。

 

 市川君の云う所によると、六月から十二月迄家根(やね)の下に寝た事は一度もなかったそうである。あるときは水の溜まった溝の中に腰から下を濡して何時間でも唇の色を変えて竦(すく)んでいた。〔中略〕今あんな真似をすれば一週間経たないうちに大病人になるに極(きま)っていますが、医者に聞いて見ると、戦争の時は身体の組織が暫らくの間に変って、全く犬や猫と同様になるんだそうですと笑って居た。〔後略〕

 

 「六月から十二月迄」、つまり、七ヶ月間「家根の下に寝た事は一度も」なかったという。これらは、旅順要塞戦、続く「二百三高地」戦で、日本軍兵士の命など問題にならなかったことを、生き残った兵士の口を通して物語るものである。

 

旅順港

 このあと午後は、海軍中佐「河野さん」の案内で、小蒸気に乗って五人(夏目、佐藤、橋本、田中、伊藤)で旅順港をくまなく見てまわった。「河野さんの話によると、日露戦争の当時、この附近に沈んだ船は何艘あるか分からない。日本人が好んで自分で沈めた船丈でも余程の数になる。〔中略〕器械水雷なぞになるとこの近海に三千も装置したのだそうだ。」「じゃ今でも危険ですねと聞くと、危険ですともと答えられた」(「満韓ところ\/」二八)。「沈んだ船を引き揚げる方法も聞いて見たが、〔中略〕我々が眺めていた時は、いつ迄立っても、何も揚って来そうになかった」。旅順港は、死の海と化していたのである。

 

「犬や猫と同様」──「人間状態にあらず、犬馬也」

 以上のように、漱石の旅順報告は、およそ五年前の“あの戦争”の実態、旅順戦での戦争指揮、なかでも、兵士のおかれた「犬や猫と同様」の状況──総じて、“あの戦争”が現場・戦場でどのようなものであったかを如実に物語るものであった。これは、国民(より具体的には、兵士と兵士を送り出した当事者)に知らされるべきものであった。「犬や猫と同様」になれなければ生き延びられない戦争、同時に、そうした戦争指揮であった、と。換言すれば、漱石は、特派員、ジャーナリストとして、しかるべき役割を果たしているのである。むろん、それは、新聞記者(従軍記者)の報道とは異質なものであった。

 実際、こうした旅順戦を含む日露戦争は、たまたま「勝った」──偶然や、様々な社会的文脈、さらに天候等により──ことにより、後に行われる無謀な戦争・戦闘の原型・模範となってしまった感がある。漱石のこうしたメッセージがしっかりと受け止められていれば、あるいは、多少とも違ったものになっていたのではないかと思わせられるのである。

 だが、漱石のメッセージは読者の元に容易に届かなかった。十月二六日に伊藤博文狙撃事件が発生したのである。つまり、伊藤狙撃に関わる報道と、“あの戦争”の実態・その跡の報告とが同時進行することになった。漱石の連載は、「伊藤公が死ぬ、キチナーが来る、国葬がある、大演習がある」(十一月六日付池辺三山(さんざん)宛書簡)で後回しにされ続け、その結果、「読者も満韓ところ\/を忘れ小生も気が抜ける」(同)という事態となった。十月二一日に始まった連載は、途中じつに二十日休載され、十二月三十日(五一回)をもって、「二年に亘るのも変だから一先やめる事にした」と筆者が宣言して終わるのである。

 とはいえ、この休載日数からすれば、じつは、漱石のメッセージは、読者にきちんと届けられなかったといえるのではないだろうか。つまり、度重なる休載は伊藤博文狙撃事件とその後の諸事件の余波を受けたと片付けられがちだが、じつは、厭戦・反戦を濃厚に漂わせる漱石の旅順報告が(三山に)歓迎されなかったことも一因ではないだろうか。

 

談話「満韓の文明」「満韓視察」

 ちなみに、漱石の帰国翌日に掲載された談話「満韓の文明」(『東京朝日』一九○九年十月十八日)、同様の「満韓視察」(『大阪朝日』同日)では──漱石の草稿とは異なり──「満韓を遊歴して見ると成程日本人は頼母しい国民だと云ふ気が起ります。従って何処へ行っても肩身が広くって心持が宜いです。之に反して支那人や朝鮮人を見ると甚だ気の毒になります。幸ひにして日本人に生れてゐて仕合せだと思ひました」(25-368)という部分が、(おそらく草稿の前半部分が削除されて)ほぼ冒頭に来ている。

 これが、この「談話」に対する漱石の後年の躊躇の一因ではないだろうか。この談話が掲載された単行本『枯木』(本間久著)の第三刷本で、漱石は、「私の筆のやうに思はれそうにて宜しからず」(『漱石全集』〔岩波書店〕第二五巻「後記」。25-605)と言ってよこしたと(「胃腸病院より来診の一節」として)紹介されているのである。『東京朝日』(主筆池辺三山)と『大阪朝日』(主筆鳥居素(そ)川(せん))は日露戦争の主戦派であったから、筆者と新聞社との間に小さくない齟齬があったと考えられる。

 なお、「満韓ところ\/」に対しては、「満韓」の話を、「揃いも揃った馬鹿の腕白」(十四)の話に還元してしまったという批判が可能であるが、少なくとも旅順訪問の報告に関していえば、友人知人たちは、むしろ箸休めとして登場させられている。成立学舎以来の旧友・佐藤友熊の話(二一)、橋本と漱石の演説の話(二七)、田中とスキ焼きの話(二九)、佐藤と鶉の話(三十)は旅順訪問の途中・前後に配置されて、読者を楽しませる、いわば閑話休題になっている。言い換えれば、作者は「旅順」の話を読者に伝えようと工夫をこらしているのである。同時に、満鉄「総裁」中村が、大学予備門以来の親友「是公(ぜこう)」と紹介されるなど、満鉄及びそれに連なる人々が、親しみのある友達として読者に紹介されるのではあるが。

 

 

2.旅順──戦争観の変化

 

 漱石は、『帝国文学』(一九○四年五月号)に発表した新体詩「従軍行」でロシアとの戦いに立ち上がることを呼びかけた。この詩は、「吾に讐(あだ)あり、艨艟(もうどう)吼ゆる」と始まり、「讐はゆるすな、男児の意気」「讐は逃すな、勇者の胆」と詠い、「傲(おご)る吾(わが)讐、北方にあり」と指し示すものである。

 「吾輩は猫である・続」(同第二章。『ホトトギス』一九○五年二月号)では、主人は「今年は征露の第二年目だから大方熊の画だろうなどと気の知れぬことをいって済(すま)している」と、「征露」という言葉が使われている。わずかに、「寒月くん」が「旅順が落ちたので市中は大変な景気ですよ」と水を向けると、「主人は旅順の陥落よりも女連(おんなづれ)の身元を聞きたいと云う顔」をしていると描くところに、熱狂には組みしないという姿勢を見せているに止まる。

 日露戦争が終わると、「今回の戦争が始(はじま)って以来非常な成功で、対手(あいて)は名におう欧州第一流の頑固で強いという露西亜である。それを敵にして連戦連捷(れんしょう)という有様」と語っている(談話「戦後文界の趨勢」、『新小説』一九○五年八月号)。そして、「この反響は精神界へも非常な元気を与える」と、日本の文学がこの勢いに乗って登場することを予言する。

 ところが、「草枕」(『新小説』一九○六年九月号)では、鄙びた温泉地に戦争の影が深く射し込んでいる。戦場へと見送られる「久一さん」に、「軍(いく)さは好きか嫌ひかい」と唐突に那美さんが聞く(十三)。「戦争を知らぬ久一さん」は、「出て見なければ分からんさ」と答える。もとより、「久一さん」に選択の余地はない。「死ぬ許りが国家の為めではない。〔中略〕まだ逢へる」と、「老人」は涙を浮かべ、「久一さん」は泣きそうになる。とはいえ、那美さんの方は、「わたしが軍人になれりやとうになつてゐます」とやけに威勢がいい。その陰で、落ちぶれた元の夫は、那美さんが渡した財布を手に満州へ出稼ぎに行く(十二)。

 なお、付言すれば、「草枕」冒頭で表明されている「非人情」という描き手のスタンスは、自然を観照するような眼を人間に対しても向けるということである。さらに言えば、(強い感情を引き起こすようなものでも)あたかも「芝居」(十二)を観るように、人間の営みを観る(できるだけ客観的に描く)ということである。だが、「さすが非人情の余も」(十二)、冷静な語り手というスタンスから転げ落ちそうになる時がある。とはいえ、続く「久一さん」を見送る場面では、(それぞれの感情に分け入りながら)人々の心理を描き分けている。

 そこには、「野分」(『ホトトギス』一九○七年一月号)発表直後に表明した「写生文」というスタンス、すなわち、(対象に感情的に巻き込まれないで、距離をもって)「大人が小供を視る」態度で描くという立場にも通じるものがある。つまり、「草枕」の「非人情」は、最後で、のちの「写生文」のスタンスに近づいていく。換言すれば、(社会的)弱者への強い共感を土台にしたものになっていくのである。

 さらに、「三四郎」(東西両『朝日』、一九○八年九月一日-十二月二九日)になると、もっと直截である。ほとんど冒頭から、「爺さん」が「旅順」という言葉に反応して、「自分の子も戦争中兵隊にとられて、とう\/彼地(あっち)で死んで仕舞つた。一体戦争は何の為にするものだか解らない。〔中略〕大事な子は殺される、物価(しょしき)な高くなる。こんな馬鹿気たものはない」(一)と、前後の脈絡もなくまくし立てる。他方、相手の「女」は、夫は呉で海軍の職工をしていたが、戦争中は旅順の方に行っていた、一旦帰ってきたが又大連へ出稼ぎに行って、ついには仕送りが途切れてしまったと身の上を語る。(子供を親元に預けているというこの女性は、日露戦争がもたらした貧困のために身を売った娼妓の暗喩ではないだろうか。)「三四郎」がこれから向かう華やかな東京を描くにあたって、作者はこれだけのことは言っておきたかったのであろう。

 以上からすると、「戦後文界の趨勢」(『新小説』一九○五年八月号)と「草枕」(『新小説』一九○六年九月号)の間で、漱石の戦争観に明確な変化が起こっている。すなわち、日露戦争への賛同・賞賛から、疑問、さらに批判的立場への移行があるのである。その原因が何であるかは明らかではないが、『帝国文学』(一九○六年一月号)に発表した「趣味の遺伝」が、凱旋の熱狂には組みしないとしても、老将軍と兵士たちへの押さえがたい感動と、帰って来ない戦士「浩さん」の運命との間で揺れ動く作者の気持ちを表しているのではないだろうか。

 

勇者(と姫)の戦(いくさ)の物語

 「富国強兵」を掲げて進む国にあって、漱石において「戦争」の問題が大きいのは言うまでもない。この点、『夏目漱石と戦争』を著した水川隆夫氏は、騎士ウィリアムと姫クララの悲恋を描いた「幻影(まぼろし)の盾」(『ホトトギス』一九○五年四月号[4])も、戦争の愚かしさや虚しさを描いたものと読んだ[5]。だが、たしかに厭戦の気配はあるとはいえ、より正確にいえば、「幻影の盾」は、語り継ぐべき戦(いくさ)という話を前提に、男女の悲恋、なかでも、男女の死に別れ(と、この世の外での再会)を描く系列に入るものではないだろうか[6]。いうなれば、騎士・勇者(と姫)の戦の物語である。ここで戦は、男性性の発露、男性の名誉のかかったものとして、つまり、勇者が受けて立つべきものとして、基本的には肯定されているのである。いうなれば、“正義の味方”がついに立ちあがる騎士談である。(なお、「男児の意気」や「勇者の胆」を詠いあげ、北方にいる「傲(おご)る吾(わが)讐」に立ち向かおうと呼びかける「従軍行」はこの系譜であるといえる[7]。)また、悪者が跳梁するなかで、剣士ならぬ犬士たちが寄り集まってお家の再興をめざす『南総里見八犬伝』(滝沢馬琴)もその系列に属すといえる。そこでは、浜(はま)路(じ)の死が(思い合う男女を生と死に分かつ)ものとして美しく描かれる。つまり、信乃(しの)に対する貞節を媒介として、大義に殉ずるものとしてその死が描かれるのである。

 これに対して、「趣味の遺伝」(『帝国文学』一九○六年一月号)は、「「人を屠(ほふ)りて餓えたる犬を救へ」と雲の裡(うち)より叫ぶ声」が響き渡った時、「日人と露人ははっと応へて百里に余る一大屠場を朔(さく)北(ほく)の野に開いた」という「余」の空想から始まる。そして、「余」の親友であり、「どこへ出しても」恥ずかしくない「偉大な男」である「浩さん」が、塹壕の中に飛び込んだところ、機関砲(機関銃)掃射に遭って、「壕の底」で「ほかの兵士と同じ様に」冷たくなって死んでいた(「浩さん」は、十一月二十六日の旅順要塞への第三回総攻撃で突撃隊の旗手として戦死したのである[8])という。とはいえ、こうした“身も蓋もない”話を、駒込の寂光院で「余」が出会った女性の話に接合し、歴史を突き抜けていく男女の思い(趣味の遺伝)という枠組みに掬い上げようとする。

 この、戦(いくさ)によって愛し合う男女が生と死に別れる(が、互いに思い合う)というイメージは、漱石が「戦利品陳列場」でA君から聞いて頭に残ったという、「地が繻子で、色は薄鼠」の「女の穿(は)いた靴の片足」と、戦争終了後にそれを観て「非常に驚いた」ロシアの士官の話(「満韓ところ\/」二三)にも漂っている。言い換えれば、勇者(と姫)の戦の物語という漱石の想像力の源泉であった表象は、旅順の「戦利品陳列場」にまで行き着いて、そして、おそらくここで終焉を迎えたのである。つまり、これまでの戦争観、戦争の描き方に作家はついに別れを告げた。

 同時に、漱石は「旅順」で、近代戦、つまり、技術と最新兵器、無尽蔵の動員、他方で、古めかしい戦術・将兵の志気の高さないしは従順さ・結果としての大量死という問題を目の当たりにしたのである。換言すれば、近代兵器を駆使した日本の戦争において、兵士は、つまり、兵士に関しては、「犬や猫と同様」であった──「趣味の遺伝」冒頭で「余」が空想したとおり──ことを、旅順の地で確認したのである。

 じつは、「吾輩は猫である・続」(『ホトトギス』一九○五年二月号)には、「迷亭先生」の言葉として、静岡の母からの手紙に「僕の小学校時代の朋友で今度の戦争に出て死んだり負傷したものの名前が列挙してあるのさ。その名前を一々読んだ時には何だか世の中が味気なくなって人間もつまらないと云う気が起ったよ」とあった。徴兵と戦争(なかでも旅順要塞戦)、そして、それが及ぼす(とりわけ地方への)影響をじっと観てきた漱石は、自分の危惧が間違っていなかったと旅順で思い知ったのである。

 この点で、漱石は、日露戦争に際して、「十万の血潮の精を一寸の 地図に流して誇れる国よ」と詠んだ管野須賀子[9]、さらにいえば、その約十年前、日清戦争の講和条約調印を受けて、「敷島のやまとますらをにえにして いくらかえたるもろこしの原」と詠んだ樋口一葉に近づいているといえる。

 

3.京城の「鈴木夫婦」

 

 二日間の訪問を十回で描いた旅順とは対照的に、撫順の炭坑の奥底に「余」が下りていくところから先は、「満韓ところ\/」には描かれなかった。むろん、九月三十日夜には着いて、(仁川、開城訪問も含めれば)二週間もその近辺にいた京城についても、描かれていない。

 漱石は、京城で、十月七日から「鈴木の家」で一、二泊するつもりであったが、結局六泊して、十三日の朝、南大門から発つことになる。

 漱石は、妻の親戚筋にあたる「穆(しずか)さん」と「鈴子さん」の「鈴木夫婦」に、気持ちよく迎えられたのである。また、「主人」と夜中までじっくり話す機会もあった。

 だが、「鈴木」はたんなる私人ではなかった。統監府の立派な役人であったのである。ちなみに、連載小説「門」(東西両『朝日』、一九一○〔明治四三〕年三月一日-六月十二日)には、「前の本多さん」という隠居夫婦(七)が描かれており、この慎ましい夫婦は、「息子が一人あって、それが朝鮮の統監府とかで、立派な役人になっているから、月々その方の仕送で、気楽に暮らして行かれるのだ」とされている。「息子」とは、おそらく、この穏やかな「鈴木」を念頭に置いたものであろう。

 漱石が滞在した時、「鈴木」はちょうど新築の官舎に移ったところであった。それは、「立派な清潔な家」で、「穆さんは馬を二頭持つてゐる。日本なら男爵以上の生活だ」と漱石は妻鏡子に書き送った(十月九日付書簡)。

 総じて、満鉄「総裁」の威光は韓国にまで及んでおり、漱石は、どこまで行っても、帝国の組織とそれに連なる人々の大歓迎にあった。「内地」を遠く離れた人々にとって、漱石の到来は格別の喜びであったに違いなく、漱石は下へも置かぬもてなしを各地で受けたのである。

 だが、「他者」が現れて──しかも、この「他者」は、文字どおりの「他者」であった、つまり、“話せばわかる”他者ではなかった──これ以上なく明白に突きつけた。出て行け、と。

 ハルピン駅での至近距離からの銃口は、韓国の「統監」をしていた伊藤博文のみならず、伊藤に随行していた周りの者たちにも向けられた。是公、すなわち、満鉄総裁は紙一重で難を免れたものの、満鉄の田中理事、すなわち、スキ焼きをご馳走してくれた「田中君」が負傷した。

 やがて、漱石は、自分はいつの間にか逃げられない所にまで来てしまったと気づいたであろう。もはや、たんに、旅人でも、旅行者でも、さらには、戦争の跡を訪ねて報道する者でもなかった。この問題、取りも直さず朝鮮の問題(「韓国併合」問題)を承知している、最も身近なところにその問題を抱えた一人になって──されて──しまったのである。「普通の人が滅多に出逢わないこの偶然に出逢うために、千百人のうちから撰(え)り出されなければならない程の人物であったか」(「門」十七)とは、たしかに、是公に誘われるままに付いていった(だけの)漱石のうめき声に違いない。

 戦争の悲惨さ、戦場の壮絶さは──そして、ついには、その馬鹿馬鹿しさ・滑稽さまで──「旅順」を体験した以上、わかっていた。

だが、問題は、こうしたシステムのうえに人々の人生がかかっているということ、人々は序列化されて、同時に、奪っている・奪い合っているということであった。旅順の争奪戦は、たんに、目の前の陣地の取り合いにとどまらなかった。平たくいえば、勢力圏、南満州と朝鮮の取り合いに直結していたのである。

 それにノーというには、漱石は、すでにそこの人々の中に首まで埋まっていた。(旅行者・漱石のまわりは、ほとんどすべて、そうした人々であった。生え抜きのエリートではないが、破天荒な行動力には事欠かない漱石の友人たちは、帝国の開拓者・管理者・支配者としてうってつけであったのである。彼らは帝国の末端・辺境に散らばって就職先を見つけ、そこで活動していた。)漱石にとっても、旅先で、今や活躍している昔の仲間の世話になるのはうれしいことであったに違いない。あの狙撃者が現れる──追いかけてくる──までは[10]

 「満韓ところ\/」の連載を年末で打ち切ってしまったのは、掲載が後回しにされてしゃくに障る、また、寺田寅彦への手紙(十一月二八日付)にもあるように、文芸欄を創設する仕事に早く取りかかりたいということもあったであろうが、それにしても、奇妙な終わり方である。撫順以降──ハルピンはもとより、韓国・朝鮮について、しかも、日本のために「韓国」という国がなくなるということについて──漱石には書きようがなかったのではないだろうか。

 やがて「韓国併合」条約の締結(一九一○年八月)を経て、首都漢城は正式に「京城」に、また、鈴木穆[11]は朝鮮総督府の度(たく)支(し)部長(会計部長)となった。

 のちの連載小説「明暗」(東西両『朝日』、一九一六〔大正五〕年五月二六日-一二月一四日)で、漱石は、朝鮮総督府下の「朝鮮」へ行って就職しようという、めかし込んだ小林に、「実はこの着物で近々都落(みやこおち)をやるんだよ。朝鮮へ落ちるんだよ」と言わせている。

 漱石が小林にこのように言わせた理由は定かではないが、たとえ、(内地で)「善良なる細民の同情者」であろうとも、あるいは社会主義者であろうとも、生きていくためには、帝国の拡がっていく組織に載って、その分け前に──そのおこぼれに──預かるしかないではないかという苛立ち、言い換えれば、答がない!という漱石の苛立ちを表しているのかもしれない[12]

 

4.連載切り上げと「クーリー」

 

 連載の切り上げが唐突であるばかりなく、炭坑の奥底へと降りていくところで終わるのも、また、唐突である。

 「満韓ところ\/」第四回で「支那のクーリー」の有り様をこれでもかと描きまくり、「クーリー団は、怒った蜂の巣の様に、急に鳴動し始めた」と描き、ついには、「鳴動連」とまで命名した漱石は、第十七回では、手のひらを返したように、豆の袋を三階まで背負(しょ)ってくる「クーリーは大人しくて、丈夫で、力があって、よく働いて、ただ見物するのさえ心持が好い」という。「この素裸なクーリーの体格を眺めたとき、余は不図漢楚軍談を思い出した」とまでいう。そして、「クーリーは実に美事に働きますね、且(かつ)非常に静粛だと、出掛に感心」したという。

 動から静(不動)へ、騒から静(静粛)へ表象は移り、同時に、蔑視から賞賛へ視線は変わっている。(とはいえ、他者の表象を好き勝手に描く点で、オリエンタリズムに変わりはないではないかともいえるが。)

じつは、「どうしてああ強いのだか全く分りません」といわれる「クーリー」こそ、忽然と現れて襲いかかる馬賊、そして、あの狙撃者のイメージにより近づいている。

 漱石は、二階へ上がってはるか下をのぞき込むと、ここで、「この中に落ちて死ぬ事がありますか」と案内に聞いた。案内は平然と応えたが、「余は、どうしも落ちそうな気がしてならなかった」という。ちなみに、連載小説「坑夫」(東西両『朝日』、一九○八〔明治四一〕年一月一日-四月六日)でも、坑道の奥は暗く、ここは地獄の入口だと言われた「自分」は、はるか下の「すのこ」へ放りこまれるのではないかという恐怖に襲われたのである。

 漱石が炭坑で降りていった先を描いていたとしたら、その奥深くで働いていた者たちは、「鳴動連」でないとしたら、「坑夫」で描かれた「坑夫」たちであったか、あるいは、「大人しくて」「非常に静粛」な「クーリー」たちであったのか。後者であるとしたら、音もなく馬賊に変身し得るような、「中国人」とその男性性・強さへの恐怖を漂わせるものであったに違いない。

                                                      (2017年6月記)

 

 

付 「旅順」をめぐって──楠緒子、楚人冠、秋水

 

 漱石と旅順という問題をめぐって、漱石と、大塚楠緒子、杉村楚人冠、幸徳秋水の関係を整理してみよう。

 

大塚楠緒子

 まず、拙著『漱石の個人主義』四六頁-四七頁で示した、漱石は大塚楠緒子の「お百度詣で」に衝撃を受けて「従軍行」を自嘲する小話を書きつけたのではないかという見方を撤回したい。発表された「従軍行」には小話にあるような「油断をするな士官下士官」という句はなく、むしろ、こうした「一瓢(ぴょう)を腰にして滝の川に遊ぶ類」(「断片」)の、つまり、まだまだ呑気な句を削除して、毅然として戦(いくさ)への決起を促す「従軍行」ができあがったと考えられるからである。

 ただし、楠緒子の「お百度詣で」に漱石が影響を受けなかったとみるのは早計である。「お百度詣で」で(言い換えれば、おそらく「旅順」要塞戦で)楠緒子が戦争観を変えたことが、のちに漱石が「旅順」を焦点に戦争観を変えていくことに影響したのではないかと思われるからである。

 かつて、楠緒子は、あたかも漱石の「従軍行」(『帝国文学』一九○四年五月号)に続くかのように、「進撃の歌」(『太陽』同年六月号)を発表した。それは、「進めや進め一斉に」と始まり、「一歩も退くな身の耻ぞ」と戒め、そして、「旅順の海に名を挙げし」「海軍士官が潔よき 悲壮の最後を思はずや」、「如何で劣らむ我も又 すめらみ国の陸軍ぞ」と、陸軍兵士の身になって「進撃」を謳うものであった。その楠緒子が、「お百度詣で」(『太陽』一九○五年一月号)で、「夫(つま)おもふ 女心に咎(とが)ありや」と勇気をふるって問いかけたことは、漱石にとって小さな問題ではなかったはずである。

 

杉村楚人冠

 漱石の戦争観が「戦後文界の趨勢」(『新小説』一九○五年八月号)と「草枕」(『新小説』一九○六年九月号)の間で明確に変化した要因としては、日露戦後の東北に取材して友人の杉村楚人冠が連載した「雪の凶作地」(『東京朝日』一九○六年一月二五日-二月二○日)から受けた衝撃があるとみられる。この後、「吾輩は猫である」では、第九回(『ホトトギス』同年三月号)で主人(苦沙弥)が東北救援の義捐金に応じ、さらに、第十回(同四月号)では主人の娘三人がそろって招魂社へお嫁に行ってもいいと言い出すのである。後者は作者の真意が疑われる表現ではあるが、(嫁も迎えないで死んでいった若者たちが気の毒だから)うちの娘でも差し出そう、という作者の軽い(?)冗談なのではないだろうか。

 

幸徳秋水

 最後に、楚人冠の友人であり、社会主義者として同志でもある「平和主義」者・幸徳秋水との関係を検討してみよう。幸徳秋水と堺利彦(枯川)らは『万(よろず)朝報(ちょうほう)』で戦争に反対する論陣を張り、同紙が開戦論を掲げると決然と退社した(一九○三年十月)。そして、それにとどまらず、平民社を興して週刊『平民新聞』を発行し、創刊号(同年十一月十五日)の「宣言」に平民主義、社会主義、平和主義を掲げたのである。

 中篇「野分」(『ホトトギス』一九○七年一月号)には、社会を「高く、偉(おお)いなる、公けなる、あるものゝ方(かた)に一歩なりとも動かすが道也先生の使命である」(「野分」八)という「道也」先生が登場する。(ただし、「先生」などと思っているのは、高柳君だけである。)

 じつは、この「道也」、なかでも、その演説姿には、秋水の面影が感じられるのである。別の言い方をすれば、秋水を造形の材料にしているのではないかということである。(「野分」という小説はこうしたものが突然描かれたこと自体が驚異なのであるが、じつは、幸徳秋水という存在に触発されて、爆発的に出来上がったのではないだろうか。)

 「道也」先生は、「社のもので、此間の電車事件を煽動したと云ふ嫌疑で引っ張られたもの」(「野分」十一)がおり、その家族の窮状を救うために神田「清輝館」で開かれた演説会で演説をする。「電車事件」とは、一九○六年に起こった東京府の電車賃値上げに対する反対運動であり、三月十五日のデモに対する鎮圧では多数の人々が逮捕・投獄された。ちなみに、秋水が同年六月、「直接行動」(総同盟(ゼネラル・)罷工(ストライキ))を提唱したのが、「清輝館」ならぬ神田「錦輝館」での日本社会党の演説会であった(拙著238頁)。

 秋水の痩せた風貌や、鋭い皮肉を武器にした演説ぶりは、速記者・小野田翠雨の『現代名士の演説振』が伝えている。これを見ると、「野分」第十一章で演説する道也の姿には、秋水が重ねられているのではないかと思われるのである。なお、同書の刊行は一九○八年八月であるから、漱石は、演説する秋水を直接目にしたと考えられる。

 ただし、高柳君と道也先生の間の齟齬──躊躇なく「公」(みんな)の問題に賭けられる「道也」と、「さうは行かぬ」高柳君(拙著130頁)──が指摘されており、また、文学士・白井道也と高柳周作の戦場は(社会という修羅場は同じだとしても)あくまで「文学」であり、求めるものは「文明の革命」(短篇「二百十日」〔一九○六年十月〕、拙著238頁)である。したがって、「道也」の演説内容は、(おそらく秋水の向こうを張った)「文明の革命」家・漱石の演説とでもいうべきものになっている。

 言い換えれば、漱石にとって秋水は、ついに見出した尊敬に値する同時代人、四歳年下のライバルであった。

                                                      (2017年10月記)

 

[1]東京大学へ入学する準備課程としての学校。のちの第一高等中学校、さらに第一高等学校。

[2] 漱石の日記の引用は、平岡敏夫編『漱石日記』(岩波文庫、一九九○年)による。

[3] 「満韓ところ\/」の引用は、藤井淑禎編『漱石紀行文集』(岩波文庫、二○一六年)所収の「満韓ところどころ」による。

[4]『漾(よう)虚集(きょしゅう)』(一九○六年五月)所収。

[5]水川隆夫『夏目漱石と戦争』(平凡社新書、二○一○年)、一○○頁。

[6] ただし、物語の不可能性を指摘する点で、そこからの離陸を窺わせる。

[7]同時に、夫(つま)の死を思って「女」が泣く美しい姿が、予定されているはずである。

[8]水川前掲書、一二三頁。第三回総攻撃の死傷者は一万六千九百三十九人にのぼった。

[9]拙著『管野スガ再考──婦人矯風会から大逆事件へ』(白澤社、二○一四年)、二四九頁。

[10] そして、ついには、狙撃者に対する裁判記録まで送られてきた。おそらく漱石は、手にとらずにはおれなかったであろう。

[11] 漱石の妻鏡子の妹の夫である鈴木禎次の弟。

[12] なお、ここで「明暗」という物語は、明治大正という時間・東京という空間設定に、わずかながら「外部」(ここでは取りも直さず「外地」)が持ち込まれている。 

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